手塚と石ノ森の遺作のあつかいを見ると、せつないものがあり
ます。絶望と戦っていたのか飲み込まれつつあったのか判断でき
ないものが、中断されたまま残った手塚と、「HOTEL」がちゃ
んと続いている石ノ森。
手塚は、アニメ業界とマンガ業界という、それぞれ独立して似
ているけど別のリクツでまわっている2つの世界を、行き来する
確信犯だったのか、両方とも同じもんだと思っていて裏切られた
と感じていたのか、最後の到達点は、何だったのだろう。
マンガの人で、晩年までチャレンジと言っていた、マンガ業界
の住人、石ノ森が「サービス業・職能・最大公約数の人間ドラマ」
に回帰するのは、自伝のようなものです。
幸せな教訓的ストーリーに到達するのは、評論家としてものた
りないと言うより、単純にうらやましいですよ(笑)。
手塚は、ストーリーマンガの父と「言われている」けれど、本
人はなんと自認していたのか? 「ぼくは孫悟空」と言ってはい
るけれど。
手塚の研究が、死後数年、まとまらなかったのは、アニメとマ
ンガ界の、二重性(の人間関係)にあったと思います。
>手塚だと、純朴なバカと意思のある奴という二人の主人公が出
>てきて、後者がその理想ゆえに悪の道に
火の鳥の大和だったか鳳凰だったかの、我王とアカネ丸。あれ
は、人間の性(性悪説・性善説)に関係なく、時代の流れという
ものに、いやがおうにも飲み込まれる無常観をうたったマンガと、
ぼくは読みました。
我王が乱暴者に見えて、実は、愛すべき人。アカネ丸の功名心
が貴族につけこまれる、弱く悲しい人。アニメのほうは、モロに
そうで、そういう悲しい男を見守る女、という構図で、ヒドイよ、
と思いましたが。
そんな単純な人間なら、そもそも多作にならねぇって。生命力
が、すばらしくも矛盾をはらんでいるから、火の鳥はシリーズな
んだって。
ヘタしたら、生命は、生命であるというだけでは肯定できない、
生きるということはすばらしくない、ぐらいの葛藤があるって。
手塚の魅力には、結局なにが言いたいの、どれが正解なんです
か? と解読に困る、というのがあります。
なにが言いたい、とかメッセージ性じゃなくて、その先のドラ
マを、味わってくれよ、と。マンガのネタになるなら、なんでも
いいやという、残酷なまでのドラマ主義。
主人公が死なないのは、ドラマを終わらせないため、わき役が
死んだり生き返ったりするのは、ドラマをもりあげるため。生命
賛歌は、ドラマのための方便、くらいにアンモラルな、冷徹なイ
ンテリだったのかもしれない。
手塚は、最大公約数の側の人間じゃあない、そのフリはできた
し、最大公約数の人間を感動させることもできたけど。
異端者としての生きザマ、という意味でも、本人にも、やはり
魅力はあります。
そね
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