件のマルチ団体みたいな奴にしても、本当に商売のことしか考えてないんならまだマシなんです。しかし、彼らは(中間管理職から下の実行部隊は)下手をすると、本気で、自分がやっているのは良いことだ、相手のためにも良いことだ、という善意から動いてたりするから却ってしんどいんです。
10年ばかし前、携帯電話の普及以前、親子電話ってもんが一時普及しました。一本の回線で、おやじ、おかん、じいちゃん、ばあちゃん、娘、息子らが自分の自室に子機を持てる、ってシステムで、それに冠せられてた商品コピーライティングが「そして家族は自立する」。
俺はそれ読んで、その美辞麗句コピーセンスの欺瞞性に激怒し、おい、それりゃ「そして家族は『自閉』する」だろ?! と思ったもんでした。
いっそはっきり「おやじやおかんに聞かれたくない電話を自室できます」なんて書いてありゃ許せた。でも、メーカーの奴とか、コピーライターの野郎とか、うっかりすると本ッ気で、商品コピーの額面を信じてたりして(うそ臭い欺瞞的な美辞麗句を平気で書いて「いや、商売ですよ。わかってわざとやってるんですよ」ってのも嫌だけどさ)。
件のマルチもどき商法にしてもなんでもそうだけど、みんな商売してる自分を善人だと思ってる、ってゆーか善人だと思いたい意識を平然と持ってる(こう書いてる自分も含め)ことに、疑問を覚えてしまいます。
江戸時代は士農工商、インドのカースト制度も僧侶、武士、売者の順に偉い、むかしは、商人はへりくだって当然、ってのに、多少なりとも自覚があったんじゃないかという気もします(ま、階級制度なんて形式的なもんでしかない、って見方もありますが)。
>彼らを、こうしてしまったのは、大量生産を可能にした大企業
>や、商店街を駆逐したデパートで、高度成長期、戦後復興を支え
>た人間によって、われわれの同世代がゆがめられている。
マルクスが「共産党宣言」で書いてたのをわたし流に理解して言いますと、近代以前の「商業」は、10年も百年も、特定の顧客に特定の商品を売ってりゃ良かった。でも近代以降の「資本主義」では、大量生産と市場競争の桁が五段階ほど上がった結果、常に技術革新と不特定多数の顧客への市場拡大が必要になり、同時に、商売の玄人と素人の差異がどんどん崩壊していった……その挙句かマルチ蔓延ってことでしょう。
このサイトの作者さん曰く、あっさりマルチにはまる人は、自分が良い人に囲まれてとんとん拍子で成功して行く「課長島耕作ドリーム」に浸ってるらしいそうです。どうして自分で自分を島耕作と思えるか? そりゃ、自分で自分は善人だと無邪気に信じてられるからでなんしょう。
……まあ、今でこそこんな偉そうなこと書いてるけど、件のマルチもどき販売に勧誘された時は(二日間だけだけど)かなりフラフラと行きそうになりました。それはこういう理由です。
当時の私は(今もだが)、まっとうに働いているとは到底言いがたく、売文業だけで万全な収入を得ているわけでもありませんでした。
で、ネクタイ・スーツのまっとうな世間に戻らねば、というコンプレックスがあった。
で、わたしを件の組織に勧誘した畏友は、30近くになって定食にも就かんダメ人間のわたしを更正させ、まっとうに社会参加させる気で、件の組織に勧誘したわけです。
(とはいえ、アル中を直させるためにシンナーを勧めるようなもんだが)
その当時、わたしは、このように考えておりました――
「わたしは世の中から落ちこぼれたひねくれ者のへそ曲がりである。
わたしは『非・世界』であり、世界は『非・わたし』である。
世界の決定権はわたしには無い、世界がわたしの決定権を握っている。
わたしが自分個人の意志において好きなものは世界において間違ったことであり、
わたしが自分個人の意志において嫌なもの、嫌なことは世界において正しいことである。
わたしは自分が世界から外れて落ちこぼれていることを恥じ、反省せねばならない。
わたしは世界と和解しなければならない、でなければ大人とは言えない。
よってわたしは自分の好みを押し殺し、自分の嫌なことをしなければならない
――こうした固定観念のために、わたしは個人的好みの問題を押し殺し、自分にとっては不快で、嫌いなものであるはずのその組織に、だからこそ与することをしなければならないのだと思いかけていたワケですね。
だが、彼らのうそくさい明るさにはついていけない気がしていた。大体わたしは貧乏でも一人でも平気なのだ。で、わたしは付き合いきれずに脱落したわけです。
だが、敢えて言わせてもらうと、件の友人は、確かにわたしより学歴も高く職歴も立派で博学でしたが、わたしから見れば、一度も脱落したことのにあ、一度も峻厳な意味で一人になって自分を省みたことない(そんな必要のなかった幸福な)人間だった、と言えるでしょう。
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