[ NO.1169 ] [ 2000/07/23 06:40:05 ]  [ 投稿者:S.Sone ]
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RE:1168 正義でなく、愛のボランティアかな。僕じゃなくて石森は

「吹きすさぶ風がよく似あう」

>「正義」があって欲しい、って願う人
>「巨悪」に向かって皆が団結・連帯してウォーッって気分が、どっかで取り戻せないか、と思ってるんでしょうか。

 さすがにこのトシになると、自分のふがいなさが目につきすぎ

て、イカサマをする子悪党に対してすらも、立ち向かう気概がな

いです。

「プライドを傷つけられ、アイデンティティを奪われた時、その

相手を巨悪と認識してしまう」とか、昔とったキネズカの自己分

析ばかりできてしまい、相対主義の海におぼれてしまう。

 だからこそ、モノサシやメモリでなく、こんな話をきいてくれ

る佐藤さんに、寂しさをあげるんですよ(笑)。

 こんな話を聞いた時も、ぼくは、もの悲しさしか覚えません。

 利口なやつが、法律の範囲内で、トロいやつを利用しただけの

ハナシ。

 ぼくは、この4年間、吉野洋充と共同で働いた成果を、突きつ

けられたような気もしました。

 ああ、マルチの世界でしか生きていけない人間もいるんだ。モ

ンクを言うのはオカドちがいか、と。



「9人の戦機と人のいう」

 そろばんハジくのが上手で、明るくて、われわれのようなヒネ

クレ者いがいの人間のための人気者、かれらは田舎のアキンドじゃ

ないですか。

 まちの電気屋さん町内の八百屋さん、があった時代は、おらが

村の人気者だったハズですよ。町内会イベントで、もうかったも

うけなかった、と多少ハメをはずす程度の。

 近代の論理で、資本の徴兵制をくらって、「トロいやつしか狙

えない戦士」「えげつない参謀」など、みっともないクラスチェ

ンジをとげた商人、と感じます。

 彼らを、こうしてしまったのは、大量生産を可能にした大企業

や、商店街を駆逐したデパートで、高度成長期、戦後復興を支え

た人間によって、われわれの同世代がゆがめられている。

 戦争はまだつづいていた。徴兵制を、国家でなく企業がやって

いたら、そのスキマをぬって、義勇軍や独立ゲリラが民間人をラ

チしている。

 戦争が、国家vs国家から、党派vs党派へ、個人vs個人へと細分

化した集合体、企業vs企業ということですか?

 マルチやる以外に能がない人間の、かえるべき場所をうばった

のは、復興をねがったわれわれだった、とかストーリーも浮かぶ。

ぼくは「巨悪」でもなんでも、人間の集団の素因数分解をするテ

くせを、別冊宝島あたりでしこまれているから、ダメですね。

「坂口安吾だの色川武大だの中上健次だのと言」われて、とても

「通じる」自分を疑ってしまいますからね。

 だから、いっそこんな世界に産みださないでくれよ、とフラン

ケンシュタイン博士に想像されたプロメテウスと共感できる人間

は昔むかし、けっこういたんだな、と気がつきました。



「だがわれわれは愛のため」

 たぶん、ぼくが求めているのは、正義ではなく「牧歌世界」な

んでしょう。ひねくれているぼくの「牧歌」がアバウトな掟の、

ハードな荒野だとしても。

 なら現実でいいじゃないか、過酷な競争をたたかいぬけ、と言

われても、現実じゃくて、なぜか大じかけなハードボイルド的「

牧歌」を求めてしまうのが、ひねくれもののひねくれものたるゆ

えん。

 テレビゲームの世界ならば、オレだって、マメだし親切だしファ

イトあるぜ、みたいな。



「たたかいわすれた人のため」

 アニメーターという職種は、今でもけっこう内情はヒドいとか

噂されていますけど、過去、”賤業”あつかいを、確実にされて

いたんですね。

 高度成長期に、絵空事にうちこみ、しかもビンボーだったら、

ファンや子供にはともかく、世間の大人からは冷たい仕打ちを受

けます。

 芸能人ほど、儲けや知名度があるわけでないし。

 そして、その子供は、残酷なまでのアクションシーンをもとめ、

品質に関係なく、エロはとにかく強い。そして、スポンサーの商

品販売、コマーシャルの「手段」としかテレビ局は考えていない。

 手塚治虫は、アトムのデザインひとつとっても、「自分の子で

はない」と感じてしまった。ぬいぐるみのようなマスコットでな

く、シャープな戦闘機をファンから求められ、そう成長した我が

子に言っている。

 きつい作業である自分のやりたいことが、ファンにズらされ、

納得がいかず、コマーシャルの手段という社会要請に応える後発

のほうが、その要請(視聴率)には応えてしまう。

 虫プロの倒産は、昭和40年代(1972年ごろ)です。



「涙でわたる血の大河」

 手塚にあこがれた人間は、そういう手前勝手な、さまざまな自

分の「牧歌」を、手塚の世界に投影していたのではないか?

 自分もそうだから言うんですが、あれだけ拡大解釈(に耐えら

れる多作な人でもあった)な後続の投影にたえられた作品群はな

かった。

 呉さんは、ちょっとイヤミに、才人と評価している石ノ森です

が、ちょっとちがうよ、と思うんですね。手塚がたびたび言って

いるように、手塚はアニメがやりたくて、その手段にマンガをやっ

ていた人間で、皮肉にも、手段のほうが評価された人でもありま

す。

 あたかも作品よりも視聴率をもとめたテレビ局のように、アニ

メのためのマンガを手塚は描いた。だから、ジブリの宮崎監督あ

たりは、手塚を良くは言わない。

 しかし、だからこそ、あてる、もうけてアニメ資金、という気

迫の手塚のマンガは、牧歌でロマンでハードボイルドでジャンル

にしばられなかったし、虫プロが倒産した後の「ブラック・ジャッ

ク」は屈折していた。

 同じタイプの、極真のPRでもあった、梶原劇画の登場に、一

度は敗北した。こちらは、怨念のマンガだった。



「夢みて走る死の荒野」

 陰のあるヒーローが多かった石ノ森が、遺作にもなった「HO

TEL」に回帰していったのは、失礼だけど、人間年とって立場

も固まると、こうなるのかな? と疑問にしか・・・というか注

目していなかった。私も。

 年譜やファンサイトをまわって、納得できた部分が多かったん

ですけど。あ、チャレンジか、と。

 ちょっと前の私は、毒気のない教訓的なストーリー、というだ

けで「学校的」「偽善」と感じてきたんで、カンベンしてもらい

たい。

 ぼくが、いまだに、残虐とアクションとエロを、結局もとめて

しまう”アニメファン”のまま、この年になったのかもしれない

けど。

 ぼくの世代が、残酷なまでのブラックユーモアに、失礼なまで

の諧謔に、暴力的なまでの露悪趣味こそ評価するのは、ぼくなん

かよりも救いようのないインターネットや、ネットアングラで瞭

然です。

 学校教育がウソくさかったんですよ。

 で、若くなくなったぼくより、さらに下の世代は、学校には反

逆すらしない(マトは誰でもいいらしい、か、誤射をする)無秩

序、こちらが、ちゃんとした良識をあげたいほど、学校は壊滅し

ていたとビビる始末。

 いま、説教くさくてたいくつ(と感じていた)なマンガ(失礼)

マジメに読んでますからね。

 この流れでいくと、”マルチにしか居場所がない”人間は、もっ

と増えるでしょうね。

 教育現場で、再教育不能の人間をつくり、教育がいらない職場

(マルチの利点はここ)にしか就職場所がない人間を量産するの

は、学校という空間が、教職につくしかない人間が、教鞭をとっ

ているからですね。デキのいいのが先生に、あとは塾講師かマル

チ。か、マスコミ。

 大学教授は、弟子の教育より、マスコミ好きだし。

 学校は税金で運営されているマルチだったんだ。この話は、

ひとことで言えば、「ヤなセンコー」ということではないですか。

具体的な就職さき進学さき「夢」を言え、次のテストの目標は何

点だ? おれのノルマがポイントが、犯罪や問題だけはおこすな

よ、まわりのみんながんばっているゾ、って。

 ぼくは「そおでぇぇぇぇす」と言えない人間だった。目の前の

テストや教科書と、自分の将来を結びつける想像力が欠如してい

た。なぜやるのか、ゴリヤクがはっきりしてないと、できないゲ

ンキンもの。

 お金がいっぱいもらえる一流企業が、もう存在しない日本にお

いては、芸能人にあこがれてるだけで、学校がおわってしまうよ。



「サイボーグ戦士、たがために戦う」

 萬画家・石ノ森章太郎が、このオープニングテーマを、己の代

表作に命をふきこむ動画屋・アニメーターたちに、泣きながら書

いて捧げたような錯覚を覚えます。

 高度成長期に背を向けた(か、こぼれ落ちた)アニメーター。

経済よりも絵空事が好きで、ヒーローを産み送る毎日。社会的に

はださい職業。もうからない仕事。こどもに夢を与えようとして

も、要求をエスカレートさせるファン。視聴率の道具としか考え

ていないスポンサー。

 プラモデルを売るための「ロボットアニメ」の、金字塔「ガン

ダム」が誕生する前夜に、この男のポエムがあったかと思うと、

ちょっと涙ぐんじゃいますね。

 みずからを資本の論理にもぐりこませ、近代の兵士となること

に妥協し、なおギリギリの「牧歌」をねがう。サイボーグ戦士と

は、自分やアニメーター(苦悩するヒーロー)たちへの、軍歌だっ

たんでしょう。

 ストーリーを、プロットで素因数分解すると、このあたりの仕

は、志が高い。王道になってしまった、これらの類型にハ

マらないで、新しいことを考えろといわれると、かなりキツイ。

 1979年の「サイボーグ009」は、オープニング以外は、え

んえんとつまらない(笑)。

 当時は、SF+平井和正的なオカルト(ケルト神話?)、カラー

アニメをテレビ放映ということで、いまこそおれたちの時代、と

いう意気込みがカラまわりした感があります。

 そして、今のジャパニメーションのほとんどに、なんの感慨も

抱かないのです。

 さらに、私は、エヴァンゲリオンが、アニメ史上にどのような

足跡を刻むのか興味はないんですが、アニメファン史上に、最低

の足跡を刻みこんだと感じています。経済的な勝敗はともかく。



「サイボーグ戦士、たがために戦う」

 虫プロで青春時代をすごした富野監督が、ビジネスがいやになって、

それでも経験も、キャリアゆえの余裕も、過去の財産も仲間もあっ

て、みごとな回帰をおこなった。

 ターンAガンダムは、魚を持ち帰ることができた「老人と海」

なのでしょう。

 ぼくは、自分のもの言い活動をふりかえって「学校」と戦いつ

づけたんだな、と思うことがあります。恩師がいなくて、だれの

魂の弟子にもなれなかった、マルチ産業みたいで、(悪の技術を

流用した、苦悩する裏切り者)サイボーグ戦士がいない、「学校」

がキライだったんだ、と。

 ぼくが、学歴社会に批判的な高校生活を送り、でも学歴がない

だけの自分に気づいて、以費塾と拳法を経由して(偏差値で言う

ところの)五流大学(すごくいいところでした)を中退して、社

会人4年生も中退したようなものだった。

 社会人として、ちゃんと経済活動を見て、自分でやってみたかっ

たんだだけど、その結果は、ヒトサマに言えるようなもんじゃな

い。

 日本的マルチというのは、ぬめぬめしたシステムであって、「

高校野球 → プロ野球」と何がちがうんだ、リバティーコープ

も資本スポーツだ、きみは、ただ野球ファンじゃないだよ、と言

われれば、そうですかねってなもんで。

 高校野球は、日本で一番汚い組織の高野連が主催だと、誰もが

知っていても人気だしなぁ。高校生は悪くないし。マルチに10

0万単位でカネぬかれるのも、プラチナチケット買ったようなも

んですか。あこがれたなら、つづけて、きみもプロを目指しなさ

い、とか?

 それでも「学校」はキライだし、資本主義(は、ただの現実だ

から共産革命を起こそうとも思わないが)というか、日本的マル

チをささえる、言説も人間も、やっぱりキライだ。

 「ファントム・メナス」のジェダイのように、通商連合やドロ

イドを切り飛ばしたい想いだけなんだけど、日本的マルチがきら

いだ、という感覚だけがぼくの「ほんとう」かな。

 それに超える価値観を共有してゆく、ということは、まだでき

るかもしれない。



 一部・敬称略(マンガ家の苗字の次にきて、文章のリズムがくず
さない敬称があるなら、つけます。さん・氏・画伯、どれも違和感
があるので)



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