ゲーム評論 ときめきメモリアル(コナミ)


  たとえば、タイのゲームシーンに、私は興味がある。
  
 日本が、ザブカル輸出国となっていたのは、デブ岡田なども力

説するところだが、それは日本のエロアニメやアダルトゲームが、

アメリカのナードの「ウヒヒムヒョヒョ」アイテムになっていた、

というだけの話で、ムキなることではない。

 じゃあ放射能廃棄物をフランスに輸出している日本や、チェル

ノブイリ産のフルーツをバラまいてるロシアが素晴らしいのかよ?

と聞いてみたい。

 輸出できたからってイバんな(笑)。なにが輸出できたかを問

えい。

 オタク文化の輸出なんて、国辱行為いがいの何者でもない。



 すぐれたサブカルチャー(の、ほんの一部分のオタク文化)を

作れるのは、すぐれたメインカルチャーを持つ経済的先進国のよ

うな「余裕」のある国だけだ。

 だから、その裏返しでアメリカの犯罪は、そこぬけに大バカで、

どーにもこーにも複雑に、屈折していて陰湿なのだ。

 私は、上記ニチポン氏と「ワンス・アポン・ア・タイム天地大

乱」を観賞しながら、タイのゲームシーンや映画について、おしゃ

べりしたが、とても楽しかった。その話は、また別の機会。

 別ルートで、興味深いハナシを聞いたことがある。

 タイでは、「ときメモ」がブレイクしていて、タイのゲームマ

ニアは、ゲームやりたさに日本語を覚え、そしてマスターできた。

ただし、カンペキな「おんなコトバ」で。

 「ときメモ」で日本語を学習してしまったタイのアミーゴたち

は、いつかわれわれと会うことがあれば、オネエ言葉で本場日本

のサブカルチャーについて真摯な質問をしてくるにちがいない。

 私は、そのとき、そのオカマ言葉と咎めることはしない。

 経済的にも文化的にも、そして娯楽においても、日本はアジア

の憧れなのだ。戦後日本がヨーロッパ文化に憧憬をいだきつつ発

展をむかえたように、日本はあらゆる意味において、アジアの人

々から「かっこいい」と思われなくてはならない。それが「世界

というアムウェイ」「地球というネズミ講」で勝ってしまった「

勝者」の義務だ。

 ご都合主義でエゴイストな私が、日本の繁栄で犠牲になった人々

に応えられるとしたら、私自身が犠牲者の分まで(広義の)豊か

な生活を送る以外にない。

 私は、いつの日か「ときめきメモリアル」をやろうと思う。

 だって、素晴らしいじゃないか。ぼくはタイ語しゃべれないけ

ど、日本語をおぼえたタイ人が、きっと「同時代人の共通の話題」

としての、恋愛シュミレーションゲームについて、熱く語ってく

れるはずだ。



●キミは「ときめきメモリアル」(コナミ)を肯定できるか!?

 さて、ゲームマニアには不評な、「ときめきメモリアル」だ。

 個人的な好悪や、ゲームグルメとしてのレビューならともかく、

「評論家」としての発言は、私は「ときメモ」を全面肯定する。

 アニメ絵のセンスが悪い、という意見がある。バカ言っちゃい

けない。いろんな趣向なユーザーを幅広くフォローするには、単

調なクセのないアニメ絵であるべきだ。「どらエモン」のしずか

ちゃんや、ナウシカがブスなのかよ? 

 個人的には、ゲームの中の女の子と「恋愛」しているオタクな

んて、大嫌いだ。そして、どうせ仮想世界のオンナのコと恋する

ならマンガとか小説(それも古典)から、「自分で恋愛したいオ

ンナのコ像」をクリエイトする努力くらいしてほしいよ。

 I Love 南子(出典は論語)。

 マーケティングで生み出されて、企業の人に「はい、このオン

ナのコとつきあって」ってスエゼンされたオンナのコなんて、ピ

ンサロで「恋」した女を指名するより下の、ウッキッキーモンキー

君な想像力だ。

 でも、テレビゲームだから、それでいいのだ。

 一流のゲームである将棋や麻雀や格闘技やテニスや野球は、そ

のルールをあーだこーだ言われたり、作品としての「麻雀」を問

う人はいないし、イチローの容姿が問われたり、極真空手の経済

事情をウンヌンする馬鹿はいない。

 まあ、少しはいるが。

 ともかく一流のゲームは、プレヤーの勝敗が問われたり、プレ

ヤーの「魅せる勝負の内容」が問われるものだ。そして、将棋や

麻雀を「作ったひとは誰か」なんて考える小賢しい人間も、専門

家以外いない。「いい雀荘はどこか?」「美しい棋譜とはなにか」

が話題だ。

 成熟しているので、自分がプレーヤーとしてどうするべきか、

プロプレーヤーの「いい勝負」が観たい、とかしか話題はない。

 ま、それらのゴシップ記事だけで「スポーツ新聞」とかの「1

メディア」ができるほどなんだけど。

 ところが、2流3流の糞サブカルチャー、テレビゲームとなる

と「どれがクソゲーか」「良いゲームの条件とは?」「これなん

かいいゲームだよ」まあ、これがガキのおしゃべりならゆるされ

るが、いい大人まで「このゲーム作家は芸術家として」「コンビ

ニ流通が」「ソフトとハードの関係が」とか、キチガイとしか思

えない発言を平気でしている。

 笑わせるな。セガやバンダイという企業の合併や失敗が、キミ

の人生にどう関係あるというのか?

 将棋や麻雀のように、長い歴史で育まれ、地方ルールまである

ような遊戯ならば「ルールの発案者にすぎない」ゲーム作家を、

必要以上にヨイショすることはしないし、コマや将棋盤を作った

職人に「この桂馬の「桂」の字がかわいい」とか言う馬鹿はいな

い。そんなヒマあったら、将棋やれ。

 しかし、テレビゲームの話題は、あのアニメの絵がかわいい、

とか、サウンドが、とか、なのである。

 なんで、全員、精神病院に行かないのだろうか?

 それも、それくらいしか話題がないオタクなら許されるが、ゲー

ムを「産業」から評価するというのは、キ●ガイ沙汰だ。

 パチンコは30兆円市場だが、パチンコの経済効果や、「祖国」

とのつながりを考えながら、パチンコをする馬鹿はいない。確率

変動とリーチ目をねらえ。

 私は、自分のことを、地球でただひとりのゲーム評論家だと思

ってきたし、今でもそう思っているが、他の「ゲーム関係の発言

者」が、あまりにもキチ●イなので気味悪く思っている。同じに

されたくないから、隠れていたくらいだ。



 評論家の視点とは、歴史的文化的秩序を構築し、その中に位置

づけるという作業である。

 150おくねんの歴史をもつ宇宙の中の、46おくねんの歴史

をもつ地球の中の、ほんの一瞬の5、6000年くらいの人間の

歴史の中の、ほとんどゴミくずみたいな「近代」の、もうバクテ

リアファージな「ここ100年くらいの現代」の、さらに些末な

ごく一部の地域の、あっはーんもうダメ原子レベルの「先進国の

文化・経済」の、アチョーヒョヒョヒョ素粒子レベルな「サブカ

ルチャー」のオマケのチンカスみたいな「テレビゲーム文化」す

ら、カンタンに考えられないで、どーする。

 その点、最近の動きでは、事実上の「プロプレイヤー」を産み

だした「バーチャ」のムーブメントや(「フラッシュダンス」格

闘物語・ブンブン丸)、クソガキでも経済ウンヌンしてしまう状

況で、あたかもUNIX文化のように、みんなでゲームを作って

いる「Quake」や、システムとして(問題をはらみながら)

頂点に立った「Diablo」くらいは、「歴史において」ゲー

ムとして認めていい。

 そして、アジアのゲーマーに夢をあたえ、模倣ゲームを続出

させた「ときメモ」も、「文化において」ゲームとして認められ

る。

 あと、なんか、デジタル廃棄物が、いっぱい出ているらしいん

だけど、ボクは、とうとうデジタル廃棄物の中から、遊戯と廃棄

物との識別ができませんでした。

 そもそも、よく考えてみたら、スレた発言をすることを「ゲー

ム通」とカンちがいしているゲーム坊主しか、「ときメモ」のワ

ルグチ言ってないやん。

 さいってぇーーー!。

 ま、ちょっと他人とちがう趣向であることでアイデンティファ

イしてしまう、ウヒョムヒョ野郎は「ときメモ」やらなくていい

よ。

 ぼくは、いまのところ、南国娘と「恋愛中」なので、とりあえ

ず「ときメモ」はいりません。Kiwi Kiwi Kiwi Love



 初出は、ココ。

 二回目の発表は、ココ。

 はやく「SPEED論」書かなくては。



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