90年代最高のゲームマンガ 「ノーマーク爆牌党」論



「ノーマーク爆牌党」 片山まさゆき著 (竹書房)



 占いと易について:

 うらない、と聞くと、皆さんは何を想像するだろうか? オン

ナ子供がやるもの、いいことだけ聞いておくもの、超常現象やオ

カルトなんてバカにしている人でも、初詣でオミクジくらいやる

だろうか? 

 簡潔に小論をまとめたいので、結論から言おう。うらないはきっ

かけにすればよろしい。 

 うらないが「あなたのラッキーカラーはブラック。週末にはス

テキなアバンチュールがあるかも」なんて、即物的な予言モドキ

になり、有名な占い師が「あの人はよく当たるから」と評価され

るのはおかしい。 

 なぜなら、うらないが、ボク巫であり神託であった時代には、

占いとは占い師に未来予測をしてもらうのでなく、自分が判断に

迷うような時に、万物の真理を探求し、天に対しておうかがいを

たてるものだったからである。 

 ユングは言う、将来について悩んださい、コインの裏表で進退

を決断する(キッカケにする)のも「易」(えき)である、と。 

 つまり、大学に行こうか就職しようかと悩んだとき、人生相談

のアドバイザーの言うことを無批判に聞いてしまったり、おみく

じの結果どうりにしてしまったりするのは、他人の意見によりか

かったり予言を信ずる愚か者である。 

 しかし「百円玉を投げて表が出たら進学」と占いを行い、「裏

が出たか」「就職にするか」「いや、そもそも、コイン占いごと

きで将来をきめていいのか?」「おれの将来の選択はコイン1枚

の重みか?」「もっと真剣に考えるか」「いや、でも、俺にとっ

ては進学か就職かの判断は100円くらいのネウチだよな、どっ

ちでもいいし。いずれ家業つぐし」「でも大学行ってやりたいこ

と出てくるかな?」「家業についたとき、この占いのせいにして

後悔しないかな?」と、占いをキッカケにして、占いの解釈の「

己の判断に責任をとる」のは健全だし、不条理で混沌とした現実

に生きる人間の、ひとつの思考パターンだったのが、古代支那の

「易の思想」である。 

 うらないと易は、似ているようで、その主体性において、天と

地ほどの差がある。 

 小林秀雄は言う。「歴史の最大の教訓は将来に対する予見を盲

信せず、現在だけに精力的な愛着を持った人だけが、まさしく歴

史を創ってきたという事を学ぶ処にあるのだ」(戦争について)

と。 

 人間は、たとえ、あした死んでいるかもしれないけど、なにか

をキッカケに自分で考え、自分の判断に責任をとりつつ、生きな

ければならない。 

 相対主義ゆえにニヒリズムにおちこんだり、熱狂的狂信盲信の

宗教にもいかず、運不運すら論理にとりこもうという儒教(含む

易教)という選択もある。 



 麻雀というゲーム: 

 さて、私も大好きな麻雀というゲームについて、である。 

 私が麻雀にのめりこみ、阿佐田哲也の小説、麻雀マンガ、プロ

雀士の戦術書にふれるうち、「流れ」だとか「ツキ」だとかとい

う考えに、まるでなじめなかった。 

 麻雀というゲームを知らない人のために言っておくと、雀士と

いう人たちは、例外なく、ゲンかつぎなのだ。 

 それも、エンギをかついだり、自分だけのこだわり程度でなく、

はじめにポリシーありきで、そのアトヅケのように理由をのべて

いる。そして、例外なく基本の大切さも述べているが、とにかく、

当時の私は、麻雀業界はオカルト業界かと、驚いた。 

 たとえば、プレー中にミスをすると、配牌(はじめにくばられ

るカード)が悪くなったり、あがれなく(ポイントをとれなくな

る)なりツキが落ちるとか。逆に、いいプレイをすると、運も良

くなる、とか、かたくなに信じられている。 

 たとえば(当然、正規ルールの)チーやポンという行為を、あ

まりプレー中に行うと「場が荒らされる」「流れが乱れる」なん

て言い方もする。 

「え、そんなの、物理的にマージャンパイというものが置かれて

いて、それを順番にひきあう確率ゲームなんだから、ツキとか流

れとか言われても」というのが、私の感想だった。 

 ドラマチックにもりあげる麻雀マンガならともかく、敬愛する

文学者であり哲人・色川武大(阿佐田哲也)や、麻雀業界みんな

そう。 

 コイン投入5秒後にテンホーくらう脱衣麻雀じゃあるまいし、

物理的かつ数学的な確率ゲームであるべき麻雀という競技に、流

れとか運を持ちこまれてまれても、という感じだった。 



 麻雀という競技、麻雀という演技: 

 麻雀というゲームは、ポーカーと同じく相手の手の内、手札は

わからない。 

 河(ホー)に捨てられる、捨て牌(人間でいえば、新陳代謝の

アカとかツメとか匂いとか)で、かろうじて「手がかり」(人間

でいえば、もとの人間像)がつかめるゲームだ。 

 警察犬やDNA鑑定ほどは、正確にはつかめないが、相手のク

セや、うらない程度には判断の材料になる「手がかり」をもとに、

おこなわれる心理戦・かけひきがメインの競技だ。 

 だから、ホー(他人の捨て牌)を見ずに、自分の手札だけに集

中してプレイしてしまう人をタコとして一般にサベツしている。

しかし、タコでも上級者に勝ってしまったりする運の要素が強い

ゲームであるところが麻雀のおもしろさであり、「競技」として

将棋より発展せず、娯楽(あえていうなら「演技」)として、将

棋よりポピュラーになった理由だろう。 

 麻雀トバクは一般でも盛んだが、そもそも、それで生活してい

こうという雀ゴロは少ない。ましてや、競技麻雀プロがプロボク

サーより「食えない」のは周知である。 

 麻雀は、ゲームとしてコミュニケーションとして、娯楽として

のギャンブルとして親しまれている。つまり「演技」としてのゲー

ムだ。 

 ゆえに競技麻雀と、娯楽のほうの麻雀は別にして考えるべきで、

もしくは、いい「演技」をしたい人のアイドル・お手本としての

プロ麻雀の世界があるともいえるし、プロによる「純粋競技」は、

そもそもアマの「娯楽演技」が成熟発展して、「競技−演技」が

コインの裏表のように存在するとも言えるが、「競技−演技」論

は別にゆずる。 

 テレビゲームに限らず、肉体競技・頭脳競技についての論議、

そして競技と演技の関係が、あまりに情報不足なので、ゲームと

いうものの評論、ゲームやスポーツを題材にしたマンガについて

の評論が、非常にやりにくい。 

 評論が、感想を述べるものや自分の好きなものを並べたもの、

エンターテイメントとしての文章でもなく、歴史的文化的秩序を

構築しその中に位置づけ、自他の人生の糧とすべきものであるな

らば、マンガ評論がようやく勃興し、ゲーム評論はまだ存在し

ていない。



 ノーマーク爆牌党:

 「ノーマーク爆牌党」は、片山まさゆきの作品の中で、最高傑

作である。 

 読者によっては、麻雀をネタにしてギャグマンガを展開してい

た初期の片山作品を評価し、「ノーマーク爆牌党」は、馬場裕一

の「闘牌」(トリッキーな仮想ゲームテクニック)にドラマをか

ぶせただけ、という声も聞く。 

 たしかに、ギャグマンガ家やエロマンガ家が、これが俺の作家

性だと言わんばかりに、ヘタクソなストーリー(ナニワブシであっ

たり凡庸な類型であったりの)作家に墜ちることもあるが、片山

の場合はちがう。 

 一見、天才にいどむ努力人間のスポ根コメディーにも読めるが、

文句なし、過去の片山作品の集大成というべき名作である。 

 片山は、競技麻雀の世界に、現実ではありえない「自己中心派」

なキャラを登場させた。でてくるヤツでてくるヤツ、このプレイ

スタイルこそ「おれ」だ、俺が俺であるために、こう打つ、と言

わんばかりの、クセのあるキャラばかり。 

 私は競技麻雀にくわしくないが一般的にゲームというものは、

セオリーを守りつづける体力がある者、必殺技など現実にはほぼ

無意味で、己のミスを減らし相手のミスを誘う、確率(ゲーム論)

に忠実に動くなど、身もフタもなく言うなら「セコい奴が勝つ」

と言って過言ではない。 

 事実、「魅せるための麻雀」がモットーの小島武雄がタイトル

と無縁だったのは有名だ。 

 将棋の世界でも「勝つための将棋」派と、「プロなんだから魅

せる勝負がしたい」派があり、「勝つため」派が勝ちつづけてい

ると聞く。 

 とにかく、片山マンガだからあたりまえかもしれないが、競技

麻雀のプロたちが、バカ極まれり、というような強引なプレイス

タイルを貫き通し、しのぎを削るドラマが「ノーマーク爆牌党」

である。 

 あらすじを紹介しよう(まだ読んでない人、以下、読まないよ

うに)。 

 「爆牌」とよばれるヘンな打法をひっさげて、麻雀界の伝統を

すべてぶっとばしてタイトルを独占してしまった天才が登場する。

名を、爆岡団十郎。

 前半のストーリー展開は、この爆岡の大暴れと、台頭、そして

異端児・爆岡の不動の君臨までが描かれる。 

 まわりのキャラクターたちは、常軌を逸した爆岡のテクニック

「爆牌」に翻弄され、あるものは挫折、あるものはリベンジを誓

う。そして「爆牌」というテクニックの解明に全力をあげる。 

 主人公は、いわば「爆牌」(パーフェクトな攻撃)の正反対、

「爆守備」(パーフェクトな守備)の、鉄壁保。 

 鉄壁は、爆岡に一番ひどい負けを味あわされたがゆえに、もっ

とも爆岡への闘志があつい。いちばん地味でパッとせず、堅実な

だけが得意の、努力型タイプだ。 

 しかし鉄壁保は、ある時「爆牌」を体験する。それは「爆牌」

の使い手・爆岡が、攻撃のために相手の手牌を緻密に推測するよ

うに、鉄壁も守備のために、捨て牌という「手がかり」から他プ

レイヤーの手牌を推測する名手であったためだ。 

 攻撃は最大の防御であり防御は最大の攻撃である、からかどう

かはわからないが、鉄壁保は、いきなり「爆牌」を体験してしま

う。そう、「爆牌」とは、相手の手牌を完全に推測して可能にな

るテクニックなのだ。 

 麻雀において、自分以外の他の3人プレーヤーの手牌を見ぬい

ている人間と勝負するのは、現実世界において、素粒子・原子レ

ベルで、地球をまるごとシミュレートしている人間とギャンブル

勝負をするに等しい。 

 ならば、すべてを見通している爆岡には勝つ術はないのではな

いか? 

 「爆牌」の正体がわかったところで、「爆牌」に勝てないとい

うことがわかったようなものなのか? すべてを正確に予測しう

る予言者は無敵か? 

 おそらく、現実に、爆岡のような透視能力まがいな天才がいた

場合は勝てない、いや現実には存在しないだろう。 

 しかし鉄壁は、爆岡ですらゲーム中に1/4くらいの確率でし

か「完璧な予測」ができていないこと、そして1/4の爆岡が、

4/4つまりすべて予測しているように見せかけていたことをつ

きとめる。 

 しかし、なんといおうと、1/4は読み切ってしまう爆岡は脅

威だ。 

 そこで、鉄壁のとる作戦はふたつ。 

 ひとつは、自分の「爆守備」を、さらに徹底させる。 

 もうひとつは「色の支配」である。 

 自分のツモる牌に仮説をたて、その仮説に誠実にうちつづけ「

流れ」と「ツキ」を維持する。そうだ。ツキとか流れとかは、自

分が自分に誠実であるために、心構えの段階からフォームをくず

さずに、自分の持ち味を最大限にまで引き出す「精神の技術」で

あるのだ。 

 ゲンカツギも命がけでやれば、お祈りの効果がある、んじゃな

くて、その「ゲンカツギ」までしてしまう誠実さのつみかさねと

スタイルの蓄積が、数値物理のレベルで評価されるのだ。 

 それは、数字と確率だけでプレイし、リスク回避で守りつづけ、

たんにセコいだけとなにが違うのか、という過去のプレイスタイ

ルが、はじめて攻撃に転じられる守備となった瞬間である。 

 そして、いわば、自分のテクニックや持論を、強引に主張する

だけの他のキャラクターとはちがい、運不運すら自分のプレイス

タイルの中に取り入れたのである。 

 爆岡が「現実を支配」する王ならば、鉄壁は、未来を推測する

ことのリスクを、自分の過去と現在の意味を引き受けることで、

未来を味方につけた「ゆたかな現実」を手にいれたのだ。 

 そして、おなじみのキャラと共に、爆岡に挑む。 

 このマンガは、運不運でカオスである卓上を、天才ゆえに、正

確に予言し支配する爆岡にたいして、おのおののキャラクターが、

自分の仮説・フィクション・物語をぶつけ戦いを挑む、おとぎ話

だ。 

 その勝敗や、いかに! 

 純粋競技の世界に、プロレスラーのごときクセの強い人間をな

ぐりこませた片山まさゆきが、まちがいなく一級のドラマを創っ

たことだけは保証しておく。 



 「競技−演技」と「現実−物語」: 

 おそらく、純粋競技であるボクシングが公式競技であり、プロ

レスがショービジネスの側面が強いように、将棋と麻雀も、純粋

競技とギャンブルの側面を強くして、これからも愛されるだろう。 

 しかし、演技と競技は、おのおのが補完しあって現実の生を豊

かにするものではなかったか? 

 ゲームは、競技の側面と演技の側面をもち、それぞれの配分で

ブレンドされている。

 一般に競技は、それこそ技術の優劣を競い合うものであり、演

技は意味づけを表現する。 

 ゲームとして演技のブレンドが濃い麻雀は、そもそも小銭を奪

いあう小バクチの道具としてではなく、自分のプレイスタイルや

テクニックを表現しつつ、その演技の妥当性・競技における実用

性を競うのに最適なのだろう。 

 そして、劇的なドラマが展開するのは、卓上だけではない。人

生という現実こそ、もっとも熱い劇場だ。ギャンブルという「命

をかけた競技」は、同時に「命をかけた演技」であることを、そ

して、演技と競技がフクザツにからみあった現実を描いたドラマ

が、96年の最高の収穫といわれた「カイジ」(福本伸行:ヤン

グマガジン連載:講談社)である。 

 おそらく97年の最大の収穫は、「ピンポン」(松岡大洋:ビッ

グコミックスピリッツ連載:小学館)となるだろう。 

 「競技−演技」という、スポーツ・ゲームのジャンルのマンガ

が「現実−物語」というドラマ・人生に及ぼす効果が認知されだ

したのは、神様と言われた手塚治虫が死亡し、テレビゲームが隆

盛をきわめる状況と無縁ではない。

 日本の戦後マンガはすべて手塚の亜流といわれ、その手塚が唯

一描けなかったのがスポーツマンガである。

 ギャンブルマンガを得意としていた、福本・片山が、マンガ史

マンガ界の異端の麻雀マンガ雑誌から生まれたのも無縁ではない。 

 そして、ゲームという「競技−演技」や、ゲームを題材とした

マンガなどのドラマが、私たちのまえに「物語」としてあらわれ

る、私たちの「現実」の意味、「現実−物語」という、私たちの

人生で、ゲームやマンガや評論がどのような意味を持つのか? 

 そりゃまた今度。 

 演技というゲームマンガ「ノーマーク爆牌党」から、私は、ゲー

ムとはなんなのか、と迫ってみたが、次回、競技というゲームマ

ンガ「ピンポン」から、遊戯について語ります。 

 ごきげんよう。 



 初出は、ココ。

 二回目の発表は、ココ。

 はやく「ピンポン論」書かなくては。



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