私とことば 「ロング 読書から」
Let's PingPong


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「マス大山の正拳一撃」  大山倍達  (市井社)
「根性を叩き直したいが、自信がない」
 押忍 大山先生。
 自分は今十七歳です。高校に行ってましたが、事情により中退して現在無職です。こんな自分がいやになり「これではだめだ。自分のひねくれている根性を叩き直さなければ!」と考え、人生を一からやり直そうと思っています。
 根性を叩き直すには、武道、それも極真空手がよいと思っています。ただ、やる気は十分あるのですが、いままでやったスポーツでつづいたものがなく、空手も自信がありません。なにかよいアドバイスをお願いします(佐藤尚義 17才)。

 どうだね、君、内弟子になってみたら。内弟子になって3年間我慢して卒領したら、君は立派な青年になる。これは保証する。なぜなら独りではできないいが、仲間がいればお互いに刺激されてがんばれる。人にできることは、君にもできるわけだから。もっとも、君がどこまで本気でやる気なのか、君が人生の計画をどう考えているか、わからないから、これが答えになっているかどうか心配だが、そういう根性をもって内弟子にはいってみたらどうか。そしてカラテに専念してみたらいい。ガッツさえあれば、できる!
 どうだね。君、内弟子になってみたら(大山倍達)。

 マス大山は偉いな、と極心会館の部外者のワタクシも感じる次第です。
 武道家が、一般的に野蛮な乱暴者で、社会における生産性という点から見て非生産的なイメージがあるようで残念です。人間が本来的に、野蛮で残酷で非生産的なカオスの存在であるから、自ら拘束着をまとうように、法や徳という秩序も欲するのだ、という前提にたてば、ワタクシにとっての人格者や教養人は、評論家でなく武道家でした。言葉によって精神にしかタッチできない文学者・哲学者を尊敬しなかったわけではないけれど、肉体に意志を伝えることができる武道家を、ぼくは尊敬してきた。
 本書は、大山倍達の人生相談の書で、非凡な人である大山の言葉は、いちいちブっ飛んでいてウットリきますし爆笑します。そして悩みに対するアンサーは、究極的には「内弟子になれ、オレが面倒みてやる」なんです(笑)。
 マンガ「美味しんぼ」を、ぼくは、ストーリィとかドラマティックという視点から見た限りではキライなんです。登場人物の悩みがクイモノばかりで、結局、うまいもん食うとハッピーになれる構図がイヤで、「おまえらの人生の悩みや社会問題は、おまえらの宇宙は、ぜんぶ食い物で解決するんか?」と陳腐に感じてきました。あのマンガは、料理の世界をマンガにしたんでなく、世界を料理に閉じ込めるようなベクトルでイヤですね。
 大山倍達の人生相談が、とどのつまり「内弟子に来い」「カラテで解決してやる」だと書きましたが、ぼくは、だからこそ偉いな、と「美味しんぼ」を嫌う正反対のベクトルで思うのです。それは、悩みごとを持ちかけられた時に、徹底して、自分ができることしか言わない、ゴットハンドの健全な意志に、です。
 チマタの人生相談では、知識をこねくりまわして、学問ではこういうことになっているから、あなたの悩みはこう解決すべきだ、とバカなことをしているのがほとんどで、これならウラナイ師に聞いた方がいいんじゃないかと思えるものが氾濫している。とりあえず、ウラナイ師は、自分にできるウラナイで、アドバイスをくれるわけだし。
 大山倍達は、自分の都合を他人様におしつける、悪い意味での「社会変革の意志」や「権力志向」はありません。自分は「空手バカ」でカラテしか能がないかもしれない。しかし、カラテに関しては世界一だ、全寮制の道場もあるし、世界中に何百という道場がある。だからカラテを通してなら他人に助力できるかもしれない。と謙虚さと自信をもって語る。自分にできることで、実際に、他人に力をかす行動を起そうとする。
 自分にできないことを言う人、というのを、ワタクシは生理的に拒否してきた。たとえば住専問題にしても原発反対運動にしても。いや、ワルイことだとわかってますよ。でも、ワルイことが批判してどうにもならないことは、もっとわかっている。ぼくは、「住専問題」に対する意見を読むたびに、「なら、おまえが100兆ほど国に寄付して解決すりゃいいじゃねぇか」しか感想はないし、原発問題も「おまえが炉心の横でチャリンコこいで、(自転車の)発電機まわして100万ワット供給しろよ」しか感じない。札束を積み上げろ、こげよ100万ワット。他の社会問題も、ぜんぶ「おまえがやれ」しか思わないよ。ぼくの生活している世間は、いいだしっぺが行動しないと軽蔑されるトコばっかだったし。
 ぼくは、敵にも味方にも「同情」しかできないような人間にはなりたくないんだ。人間としての共感でなく、高みに立ってアワレに思ってやる、優位をアピールするためのポーズの「同情」なんて失礼なことは論外として、コトバしかあげるものがないような人間になりたくないんだ。ミウチが難題をかかえていたら、カネやモノや自分の技術やカラダ、できることをポンと与えて解決してみせたい。コトバはそういう行動についてフっと自然に出てしまうものだ。
 宮台真司という(ぼくは著作を一冊も読んだことがない)人間が、論敵である小林よしのりのファンに同情している、ようなポーズをとっていると聞いて、腹がたった。
 「で、そういうあなたは結局なにができるの?」と問われない世界、コネだけですべてが片付く「学校」「虚業」の世界の人間が吐く言葉のほとんどが、嫌いだ(1998.08.07)。


「完訳 ファーブル昆虫記(一)」  山田吉彦・林達夫訳  (岩波文庫)
 特に、知性を持ち出して昆虫の行なう多くの行為を説明出来ると信じた進化論は、その主張を少しも証明したとは思えない。本能の領域は我々のあらゆる学説が見逃している法則によって支配されているのだ。
          (中略)
 [ふんころがしの、ある種の]この指のないということの上に、いまどき流行の学説、生存競争と進化論に味方する説を立てることができるかもしれない。[しかし、]
          (中略)
 まず、私に証明してくれたら、私もそんな理屈にかぶとを脱ごう。しかし、それまでは古代生物のパレオテリアルが泳いでいたどこかの湖の砂漠で、団子を転がしていた最初の”たまこがね”も現在の”たまこがね”と同じように、前肢のフ節をもっていなかったと信じておこう。
          (中略)
 新しい光がほとばしった。これは私の精神には一つの啓示だった。きれいな鞘羽をコルクの箱の中に並べ、それに名をつけて分類する。それが動物科学の全部ではなかったのだ。そこにはずっとずっと優れたもの、動物の構造や殊にその職能の深い研究があるのだ。

 ファーブルは、なんかいちいち怒ってるんですよ(笑)、もちろん全編ユーモラスで愛敬たっぷりの「昆虫記」なんですが、とりあえず学者に対しては怒っている。昆虫には愛情のまなざしなんだけど、動物や昆虫の世界を進化論で説明する輩には手厳しい。
 同時代者に、進化論のダーウィンがいます。曽根は、ダーウィンに対しては意見を保留させてもらいますが、マルクスとマルクス主義者が別物のように、本人・本家・開祖・教祖が、ファン・分家・弟子・信者と別物のように、ファーブルは俗流進化論者が心底キライだったんでしょうね。
 おそらく、その当時の進化論者たちは、人間を進化の頂点・神のつくった最高傑作として、他の動物を未熟なものとしたり、動物の生態から(共存・縄張り争い・順位づけ・メスの奪い合いetc)から俗流人生論を語ったり、弱肉強食・適者生存を差別に利用したり、自分のアタマの良さをみせびらかす、くだらねえ物言いがあったんでしょう。
 世間知らずの学者が、システム分析やモデル解析して、なんか言った気分になることに、いつの時代だって心ある人はムカつくもんだ。
 余談ですが、ファーブルは趣味に耽溺したオタクというより、ゼニカネに苦労しドラマティックな人生を送った名物男といったカンジです。辛酸なめつくした男のやさしさを感じさせます。また、昆虫の世界を合理的効率的に分析することもないです。あたらしい発見と、未知なる世界を知ることに、ひたすら喜びを感じているふうです。
 世界に対して心のこもったコトダマを与える。その言葉が、数字であることもあるだろうけど、湯川秀樹や寺田寅彦のようなタイプの科学者ですね。なんかテキトーな数字をならべて、底の浅い結論を出すことが「理系でござい」のポーズになっている古今ですが、現在でも優秀な理系のひとたちは、しなやかなコトワリを、数字もまじえて語りかけます。
 話がそれました。
 種としてあまり合理的でないフンコロガシのほうが、効率的にエサをあつめられる体の部品(=パーツ)をもっている種よりも繁栄していることを指摘し、適者生存の「優性遺伝」(=メンデルの遺伝法則でなく、「すぐれたものが生き残る」ナチスの優生思想ライクなヤツね)に異を唱えたり、ハチが子育てにタマムシを「生き餌」として保存するが、なぜ腐らせずにそのイケニエを保存できるのか? その芸術的な猟師としてウデは? と謎を解き明かしていくくだりなんかはミステリーを読むようでした。
 合理的に効率的に世界を分析してしまうストーリィを批判しています。フンコロガシ飼育するために、えさのクソかきあつめたり、バフンを盗んでいる(=当時、肥料は財産)と隣人に怒られたり、お互いのエサ(クソ)を盗み合うフンコロガシの生態に「財産は盗品である」(プルードン)、「力は権利の上をいく」「略奪は一番実入りのよい商法として繁盛している」と、昆虫の泥棒競争社会に溜飲をさげたりしている。楽しそうだなあ。
 わたしは、唐突に「人生でもっとも素晴らしいのは神秘的なことがらである」というA・アインシュタインの言葉を思い出した。
 
 さて、神秘的でない、効率と合理を追い求めるマルチビジネスの話でもしましょうか。いいかげんヘキエキしてるもんで。
 成功したビジネスは、なにがしらマルチの臭いがする、商売のノウハウはマルチに集約されるとも言われ、事実だと思います。ただし、かんたんに破綻しないで上手にやれたビジネスってのは、いかにマルチ臭を消しつつも効果的に行なったかってことで。
 ぼくがマルチビジネスが嫌いなのは、合理的すぎ効率的すぎるからです。
 社員なんて人間くさいもんはいらない、やりたいやつがノルマこなしたぶんだけ歩合で報酬をもらう。夜毎の接待なんてムダ。業務のつまらなさ楽しさを胃に穴が開く人間関係の中で理解しあっていくのでなく、自分の役割と実績をつかみにくい集団のなかで自分を納得させるのもメンドいから、ハコにつめこんで洗脳一発。したがってポジティブじゃない思考もいらない。血縁や友人という身近な人間も顧客と見てしまう近親相姦(商人ってのは、関係ないところにいる、需要と供給をつなげる流通なんですけど)。オフィスなんて維持費が高い物もいらない、契約をファミレスで交わしたら工場や倉庫から直送でコストダウン、ゼニをかきあつめるための効率・法人存続のための合理でないものは、ぜんぶ切り捨て。
 合理と効率は、なんのための合理であり効率であるのか? という話であり、闇も裏も逆説も含んだ哲学が介在する。太く短くが合理なのか? 細く長くが効率なのか? 快楽追求のための禁欲や、その欲望を捨てようとする努力はどう説明するのか? つまり、合理や効率というものは、人の数だけ存在するんじゃないか?
 ぼくは、合理や効率そのものを、自己目的に追いかけるならば、死ねばいいと思いますよ。存在が無なら、すくなくとも非合理や非効率も無いんです。生きるために苦労しなくてラクですよ。自殺ってのは合理的だから、ぼくはイヤなんだ。効率的にならないと生存すらできないひ弱さが嫌いだ。生はズぶとく、まがまがしい力の源泉であるべし。
 他人の生死と自分の生に意味があるけれど、自分の死には意味が無い。ならば生そのものが非合理で非効率なもので、それと折り合いをつけるために、いろいろなものが、世の中にあるのだろう。そんな神秘的なものをさがしたい、と念じています。
 
 ぼくは、アムウェイの中堅クラスの人と商取引していたことがあります。おっと、ウチの会社はアムウェイと無関係ですよ(笑)。某企業の某契約社員の女性が、サイドビジネスでアムウェイをやっていました。契約社員で2000万円・サイドビジネスのアムウェイで3000万。特にバックをもたない40代の主婦が、年俸換算で5000万円というのは、ちょっとすごい。
 ぼくは自分で企画書を書く時、このプロジェクトに何人必要か? と必要な人件費を計画せねばなりませんが、その時ヒトリアタマ、バイト300万円・正社員500万円で計算せよと言われてるのでそうしてます。
 つまり、年俸換算して500万円が平均的な会社員だとして、あたりまえに10人分働いてしまう、一種の天才。ちょっとちがう雰囲気の人でしたね。教養はあるしオーラも放ってました。我々は畏怖と敬愛をこめて「女王蜂」とか「エイリアン・クイーン」とか呼んでおりましたが(笑)。
 別にガツガツした人でなく、幸せに家庭をいとなむ上品な人でした。生まれつき運動神経がいい人間がいるように、経済活動ができちゃう人なんでしょう。合理と効率の非常さに耐えられる強い人ですよ。
 そして、合理的でない人間を、あたりまえに奴隷にして、効率的に生かしてあげる残酷な貴族でもありました。自由な国の浮浪者は、奴隷が存在していた時代の国では、むりやり国家のために「使える人間」にされていたはずです。
 ぼくは、とりあえず、そういう貴族ではありません。そして、非合理のまがまがしさもなく、効率的な人間のヘータイていどにしかなれない人間は、マルチはやめとけ、と言っておきます。すくなくとも、俺を誘うな(笑)。
 最後に。あらゆる昆虫について饒舌だったファーブルは、生涯アリについては語りませんでした。
 イヤだったんじゃないか? あまりに合理的で効率的なアリの社会が(98.07.27)。


「日本残酷物語(一)」  宮本常一 他 監修  (平凡社ライブラリー)
「そこで諸君を真人間にするために、百円か二百円ずつの金をやることにする、その金で諸君は二、三ヶ月のうちに、四、五千円の財産をつくることができる。その金をもって故郷に錦をかざることもできれば、好きな事業をはじめることもできる。それまではおれが充分保護してやる。ただしそれがためには、いま一度だけ国法をやぶり、罪をかさねて、そのうえであたらしく生まれかわる必要がある」
 として、各人に日本から誘拐してくることを申しわたした。彼らは最初ぽかんとしていたが、やがて伊平次が最後に、
「そこで諸君、天皇陛下におわびをいたし、国民の一人として改心するよう八百万(やおよろず)の神々に祈ろうではないか」
 と熱涙こめていいおわり、一同立ち上がって君が代をうたい、天皇陛下、皇后陛下、皇太子殿下、帝国陸海軍、および南洋在住の同胞のために万歳を三唱すれば、彼らはすっかり感動にむせび、改心のために誘拐に出て立たんと誓い合うのであった。

 ビデオデッキでもインターネットでも、新しいメディアのハード販売のためにソフトを売りつける手口で、結局エロですか? と、資本主義の底辺にいる者たちが性産業にたずさわるのに、腰がヘナヘナする。
 世界のナショナル、松下電気は、全国に4万〜5万件ある松下系列の「町の電気屋さん」にアダルトビデオとVHSデッキをこっそり「サーヴィス」させて、ソニーとの「VHSvsベータ」シェア戦争に勝ったとカゲグチされているし、インターネットビジネスでエロいことばっかりに手をだす人たちとは、ちょっと距離をおきたい。
 余談だが、わたしは売春婦や風俗嬢など当事者が、法律のタテマエだけでなくマジ弾圧されだしたら、政治的な活動にかかわるかもしれない、男だから。が、エロビジネスな人たちが風営法のために金儲けに不都合になっても、笑うだけだ。エロいことで稼いだ金でおマンマを食べたその口で、正義と自由を、さえずるな。
 では日本というメディアの、領土というハードを拡張したい場合、どのような人材をソフトとしてバラまいたのか? 地球のシェア争いにおいて、だ。
 没落商人の苦労人・村上伊平次は、女衒(ぜげん)に味をしめ、スリや食い逃げ犯やスケコマシを部下に、人身売買ブローカーの親分である1867年生まれ。女衒とは売春宿に女を斡旋する「人買い」だが、村上は国家のために誘拐する。愛国心のために資本の契約(ペイバック)を無視して、かっさらう。生活苦のために、身を売る者と苦界を中継ぎするならば必要悪とも言えるが、この愛国心による人さらいは、なんと形容すればいいのか?
 シンガポールの伊平次グループだけで、5000人からの女を、アジア圏の売春宿に納品したという。他にいくつもグループはあったろう。ほんの100年前、アジア圏は、日本人の売春婦であふれていたのだ。逆に、アジアの貧しい国は、日本人相手に、同じ事をひっくり返して行っている。
 穀潰しの女でも外人相手に体で外貨を稼げる、それを生きる価値のない男がとりしきる。そうして国力を増すのだ、天皇陛下万歳! わたしは「改心のために誘拐に出て立たんと誓」った歴史に、肯定も批判もできない。生きるという事の凄絶さに、いま私が生きている日本という国が、どのようにして成り立ったのか、驚くだけだ。
 ナショナリズムによりかかった人間が、感動しながら生きられる残酷物語に、言葉を失う。
 他に、難破船が漂着すると、船員を皆殺しにして、積み荷をうばい貧しい生活の足しにできるから、村中の老若男女・一族郎党で難破船を心からまちわびていた村の話などが「日本残酷物語」にはテンコモリである。
 警察がなかった時代、素性が怪しいよそ者から自衛するために、怪しい奴は、かたっぱしから両腕を水平にのばした状態で物干し竿のような棒をくくりつけ、枝ぶかい山林に置き去りにする村の話。腕が固定されていて棒は外せないし、そんなカカシのような風体では、樹木につっかかって森から脱出できない。山犬からも熊からも身を防げない。権力の庇護がいい意味でも悪い意味でも、ないのだ。村人は「他者」とはモメたくない。やられたらやられっぱなしだし、逆に、やり返しても、とがめるものはないのだから、妥当で自然な「掟」なのだ。その現実に、やはり驚くだけだ。
 きっと100年後、エロ業界が正義と自由を口走ることに驚く人間がいるだろう。その時は、自我に甘えきった馬鹿が国家体制の被害者ヅラしてに生きられる幸福物語に言葉を失うだろうけど(98.07.17)。


「寓喩としての人生」  西部邁  (徳間書店)
 自分の思惑なんかとは別のところで自分の言葉がある社会的力学のなかにおかれてしまうことがあるのだと痛切に理解した
 西部は、ちょっとしたキモの太さと要領の良さで、学生運動のある組織のボス猿となる。青年の思想運動など、ゼニがからまない人間の集団(=アマチュア活動)など、そんなもんなんだろう。
 西部は、自分はくだらねぇ人間だなあ、と思いつつも学生運動をつづけた。泣きながら酒を飲むアル中みたいな思想中毒、というか自我中毒。永遠の青年の病。自分を大切にしていないから、自分の思想を大切にしてしまう。
 自分すら軽蔑している人間だから、そのコブン、自分の命令を聞く「同志」にすら軽蔑の念を抱いている。でもアル中だから、手がのびるのを止められない。
 そんなアル中の、朦朧とした意識の中でも、仲間を平然と裏切るような不人情は見るに堪えなかった。精神が衰弱している時こそ、人間は、人情につきうごかされる時がある。
 余談だが、同時代者、突破者・宮崎学は勇ましく闘いつづけた。ナチスと闘いつづけたパルチザン・ドゴール(後のフランス大統領)の言葉を借りれば、彼は、戦争には負けたかもしれないが、闘争に負けたわけではないのだ。
 逆に、あらゆる学生運動の局地戦を負け続け、うちのめされていく西部は、今日も機動隊に負け、ぎりぎりの意識の中で「マイクを持って、自分たちは五百人の友を見捨てて逃げ帰るような卑怯者の集まりなのだ、せめてそのことを確認して今日は帰るしかない、と喋った」。
 どこをどう押しても、当時の西部は、人間のクズである。しかし、ボス猿は、最後の良心で、仲間に撤退を呼びかけた。しかし、「それを聞いていたデモ隊が、卑怯者にはなりたくないと思ったのだろう、また機動隊を恐れていないかのように見える私(西部)に少し感心したのだろう、徐々に機動隊と再衝突を起しはじめた」。もちろん西部は、なぜ解散しないんだ、と負け戦に愚鈍な仲間に不満を感じた。
 その時、彼は、冒頭の引用のような、感慨を痛切したのだ。

 われわれのまわりにある事物は、われわれの受け止めかた次第であり、われわれが発するコトモノも、どう受け止められるかわからない。運不運としか言えない「力」が決定してしまう。
 われわれは、その「力」に、絶望し恐怖すべきだ。同時に明るく希望もすべきだ。
 無知まるだしの「分析」などに、ひたっている暇だけはないはずだ。
 西部は三十三歳の東大助教授時代においてなお万引きを働いていたという。私は、本書を万引きすべきだった(98.07.15)。
 関連文章。


「貧乏物語」  河上肇  (岩波書店)
「さらば悲しむをやめよ
正直なる蜜蜂の巣をして、
偉大ならしめんとするは、
ただ患者のなす業である。
大なる罪悪なくして、あるいは、
便利安楽なる世の貨物を享受し、
あるいは戦争に勇敢にしてしかも
平時安逸に暮らさんとするは、
ひっきょうただ脳裏の夢想郷である。
   *
かくのごとく罪悪なるものは、
そが正義もて制御せらるる限り、
誠に世に有益なる泉である。
否、国民として大ならんとすれば、
罪悪の国家に必要なるは、
人をして飲食せしむるに
枯渇の必要なるがごとくである。
−−−マンダヴィル(オランダ)1705年作」

 文明が進歩するには、商人の私欲のままにするべきである。もうけるために商人は、良い製品を開発するだろう。有能な人間に金はあつまり、ますます物質文明は進歩し、それが文明全体をひっぱって行くはずだ。貧富の差がひろがったり、戦争になるかもしれないが、そんなものは、わずかな犠牲だ。だいいち、すべてがうまくいく理想郷など夢マボロシだ。弱肉強食の秩序にまかせよ。自然が一番だ。政府が「世の中を良くしよう」と国民に介入するなど迷惑である。ほうっておけば強いものが生き残り、その強いものに歴史はリードされる(日本語意訳・曽根清治)
 上記の弱肉強食・個人主義の賛歌である「蜜蜂物語」の引用は、貧乏物語からの引用で、このような資本主義批判であり、カネモチがゼータクやめることが、この世から貧困がなくなるという、美しい本です。
 ぼくはサヨクの書く本が大嫌いで、「社会に抑圧されている」と主張する人々が集まって権利を主張するデモ活動も嫌いです。弱者とされる人々が群れること自体、生理的にイヤなんです。「世の中まちがっている!」という気炎につきまとう、うそくさい正義や偽善的な良識がイヤというより、社会に抑圧されてる弱者ごときが集団でギャーギャーさわぐことを、あつかましく思うし、下品に思う。「いまの世の中は末期的症状である」→「だから世の中をかえましょう。みんなで力を合せましょう」という考えかたになじめない。「いまの世の中は末期的症状である」→「だから世の中に適応できないひとは生きてゆけません」となるべきじゃあないのか?
 ウサギだってライオンだって、生まれてから大人になれるのは、わずかじゃないか。適応できないものは滅びるのだ。残酷だ。残酷ゆえに、それを乗り越えて生きるものは美しいのだ。
 多くの日本人を取り巻く「自然」は畜生とちがい、伝染病や天敵やエサの不足でなく、「学歴社会」であり「政官の腐敗」であったり、「貧富の差」や「容姿や性別」する。そんな「自然」に適応できない者が、自分たちに都合いい理想をならべることに違和感がある。おまえが適応すりゃいいじゃねぇか、と。
 だから、なおのこと、貧乏物語が好きなんですよ。サヨクに都合いい洗脳をおこなう書でなく、強さとやさしさから、文明にさずけられた知恵という武器によって貧乏と闘う高貴な意志が見えるから。共産主義だってキリスト教だって、発祥した動機と直後は、強さとあたたかさにあふれている。後年、それにたかる者たちに、さもしさや卑しさを痛切する。
 で、残酷なまでの競争をよしとする考えは、後にアダム・スミスなどの経済学者に受け継がれていきます。
 これに対抗するのが社会主義であり、弱肉強食ゆえの貧富の差や戦争を嫌い、政府による行政指導・福祉政策など、経済のゆくえをデータから予測しコントロールしよう(旧ソ連の5ヶ年計画とか)と、徹底的な平等が優先されます。経済学の主な潮流は、この、自由な競争の個人主義と、全体の公共のための社会主義の間をゆれていくことになります。
 わたしは、経済学というものが、経済のうごきから人間の生活を観察し、社会のうごきを理解するものだと言うならば、どいつもこいつも失敗してると思うし、経済活動を有利におこなうためのマニュアルとしてみれば、ネゴトだと思う。もちろん経済学は、経済学を専攻しているアカデミズムにしか意味がないとも言われておりますが、ぼくは社会科学全般、政治学・心理学・社会学という人文科学は、ただの「理系コンプレックス」のタマモノだと感じてきた。感情や人の欲望を数値でわりきり解明し操ってやろう、という世間知らずな傲慢。それができないから文学や哲学が必要なのだ。
 ぼくは、ときどき「力学」だとか、権力(=エネルギー)学だとか、わけがわかんねぇことを言っております。これは、政事(まつりごと)が、政治学で決定されるのでなく、政事力学で決定されてしまう現実を意識しての物言いです。すべからく社会科学は力学であるべし。
 つまり、経済学は本来、ゼニをかきあつめ、それにふりまわされている人間の欲望を分析する、きわめて文学的なものであり、それによって時代がつくられていく歴史学的なものだと思っている。そして、拳銃がつくれる、核兵器がつくれる、どれだけのテクノロジーを商品にできるか、の理系の技術力・技術史的なものから、いちから経済力学として生まれ変わるべきで、それをちょっとずつやっていこうと思ってます(98.07.14)。


「忘れられた日本人」  宮本常一  (岩波文庫)
 そしてそういう場での話しあいは今日のように論理づくめでは収拾のつかぬことになっていく場合が多かったと想像される。そういうところではたとえ話、すなわち自分たちのあるいて来、体験したことに事よせて話すのが、他人にも理解してもらいやすかったし、話す方もはなしやすかったに違いない。そして話の中にも冷却の時間をおいて、反対の意見が出れば出たで、しばらくそのままにしておき、そのうち賛成意見が出ると、また出たままにしておき、それについてみんな考えあい、最後に最高責任者に決をとらせるのである。これならせまい村の中で毎日顔をつきあわせていても気まずい思いをすることはすくないであろう。
          (中略)
 その村では六十歳になると、年より仲間にはいる。年より仲間は時々あつまり、その席で、村の中にあるいろいろのかくされている問題が話しあわれる。かくされている問題によいものはない。それぞれの家の恥になるようなことばかりである。そういうことのみが話される。しかしそれは年より仲間以外にはしゃべらない。年よりがそういう話をしあっていることさえ誰も知らぬ。知人も四十歳をすぎるまで年より仲間にそうした話し合いがあるのを知らなかった。
          (中略)
 一人の老人が、「足もとを見て物をいいなされ」といった。すると男はそのままだまってしまった。
          (中略)
 他人の非をあばくことは用意だが、あばいた後、村の中の人間関係は非を持つ人が悔悟するだけでは解決しきれない問題が含まれている。
          (中略)
 そういう時にゃァ金もうけのことなんど考えやァせん。ただ魚を釣るのがおもしろうて、世の中の人がなぜみな漁師にならぬのかと不思議でたまらんほどじゃった。
          (中略)
 今日のように口では論理的に自我を云々しつつ、私生活や私行の上ではむしろ類型的なものがつよく見られるのに比して、行動的にはむしろ強烈なものをもった人が年寄りたちの中に多い。

 われわれが生活する上で本当に直面している問題、生きていくために切実に是非を問われる現実は、論争で正しいことを言う程度ではどうにもならない。わかりきっている正しいことが現実にならないから困っているのだし、口先で解決できないからこそ重要な問題なのだ。逆に言えば、論争の遡上にあがるような問題は、そもそも「たいした問題」ではないのだ。
 キビシーことを言えば、何かの言葉で解決してしまった事柄は、しょせんその程度のナヤミゴトだったのだ。気がつかないオレがワタシが馬鹿でした、と、あっけないほど簡単に解決してしまった悩み事で、グジグジ腐りつづけたことがあるでしょう。
 ヤサシーことを言えば、言葉で解決したのは、言葉で解決できた、あなたの生命力がえらかった、言葉を血肉にできた、あなたの人生に価値があったのだ。
 宮本常一は、あえて美しい言葉で、日本の田舎世間を語る。因習と世間体にしばられ、恋愛さえゆるさない閉鎖社会の代名詞「後ろ指さされる」などの、田舎世間の躍動と合理性を説く。
 老人たちが老人たちだけの間で、おたがいの家の恥を語り合うのは、おたがいの恥部をにぎりあい、「正義の運動」を封鎖するためでもある。てめぇエラソーなこと言っても実はこういう若造じゃねぇか、と冷や水をかけるための抑圧機構でもある。しかし、その前近代なシステムは、そのような冷や水に耐えうる強烈な意志のみを育て、なぜ「正義の運動をはじめちゃうのか」その事情をくみとってあげたり、なによりも、ある少数の「正義」(=正義とは、お題目しか残らなかった何も持たない弱者の、正義でありたいと願う最後の欲望)でなく、村の皆が納得できることが正義であるべきだからだ。
 曽根にとっては、この「老人ネット」の寓話のほうが、インターネットの可能性よりも、輝いてみえる。
 村の女たちは何故エロ話をするのか? シーボルトも驚いた、日本人の旅ずきの意味は? 世間は個を圧殺するものなのか? 科学技術が発達していなかったから不幸なのか? さまざまな疑問が本書から立ち上がる。
 哲学的な学問の言葉でなく、生活から導きだされた考え・知恵は、いまペーペーの会社員である曽根に、大きな示唆をあたえる。業務上で「正しいこと」を言ってもお客様優先が鉄則だし、正義を口走る人間より強引でも問題を解決してしまう行動者が人望をあつめ、アイデアを形にしたいなら実際に動いてくれる人間を批判したって動かない。明日は友かもしれない競争者への説得であり、仲間の意をくみあげ、理不尽をときほぐし、愚痴を聞いてやる「調停者」の行動のために口を開くほうが「発言者」であるより役にたってきた。
 ぼくが一番ムキになる「論争」は、5億10億のゼニがからみ、自分が法人のカンバンを背負い、実際にヒトを動かす時だ。ゼニ・ヒト・カンバンがなくてはぼくは「本気」にならない。人間が生きていく上で、生活にからむ人間関係は、100人ていどで、その「担当者」とは、いま闘う、だけでなく、ここしばらくはつきあう「世間」である。メンツをつぶすような批判は自分の立場を悪くするだけだ。「礼」を学んだほうがいい、んじゃなくて、無いと死ぬのが「礼」だ。ぼくはそんな人の間で生きているのがすごく楽しい。また、はたからみたら3Kみたいな作業内容だが、やる気になれないとか、恥ずかしいというのもない。
 以前、伝票整理がオレの仕事か? と社会の歯車になることへの絶望感からドラッグやった犯罪者の話で笑ったが、創造力とは、つまらない現実を有意義に納得する物語力である。それを肯定するエネルギーのことだ。マスコミで働くことではない。馬鹿のアイドルになることでもない。
 なお、農民がサムライに「いま何時?」と聞かれ「昨日のいまごろ」と答え刃傷沙汰になったハナシなんかも収録されている。農業や漁業はつまらなかったのか? いまより華やかでない「昔」や「田舎」は、つまらないものだったのか?(98.07.13)


「あしながおじさん」  J・ウェブスター 松本恵子訳  (新潮文庫)
 おじ様はご自分が女でなくてよかったとお思いになりませんか? おじ様はきっと着物のことで大騒ぎするなんて、あまりにばかげていると思っていらっしゃるのでしょうね? そうですとも、そうにちがいありませんわ。でもこれは全く男性側に罪があります。
 おじ様は学識ある教授で不必要な装飾を軽蔑すべきものとして実用的な衣服を女性にすすめていた人のことをお聞きになったことがおありですか? その学者の奥様は従順な婦人だったのでその改良服を着用していたのです。そころがその結果、旦那様はどうしたと思召(おぼしめ)す?
 コーラス・ガールと駆落ちしたんですって!

 ぼくは苦しいとき、中島敦、アラン・シリトー、マーク・トウェインの小説を諳んじ、歯を食いしばる時がある。J・ウェブスターは、マーク・トウェインの姪にあたる。
 この小説では、絶望の支配する孤児院から救い上げられたヒロイン・ジュディが、全寮制の学校に入学させてくれ自分の世界をひろげてくれたDaddyLongLegsへの、あこがれと希望あふれる文通形式(ジュディの独白)で展開されるが、物語のラスト、不覚にも涙した。
  ベタベタな「少女マンガ」チックなお話でもあるが「さいきん勉強をはじめて、なんだかいろいろ主義があるみたいで、わたしは何主義者でもないから、社会主義者にもなろうか」なんて、ヘンなことも書いてある。
 あしながおじさんとは誰だったのか? ぜひ読んで御自分で確かめてください。
 余談だが、わたしは、自分のまわりの女性に「女に生まれてソンしたって思う事ある?
 男のほうが、トクだと思う?」とかたっぱしから質問してまわったことがあるが、答えは、いずれも「NO」。就職活動中の女性でも、そう。理由は多岐にわたったが、フェミニズムライクな発言をする女性の実物を、本で読む以外の場所で会ったことは、私はない。私の知っている女性が、そんなにいないということを、わりひいても。
 さらに余談。私の学生時代の同期の女性は、「女性がノーメイクで職場に来るということは、素っ裸で来ることと同じです!」とオバハンの上司から怒られたという。その女性、モデルでも受け付け嬢でもなく、老人福祉施設の介護士だから、看護婦よりジミな職場にいるんだけどね。なんか、このオバハン上司のイイブンには問答無用の迫力がある。
 カンケーないけど、くだんの女性、ボケ老人にセクハラされて頭にきたってグチってた。ケツさわられたから「やめてください。ここはそういうところじゃありません」ってピシっと言ってやったら、「俺はやりてぇからやってるんだ」って。エロジジイ、んなとこで「俺は俺を肯定」しなくていいよ(笑)。(98.07.09)

「麻雀放浪記(一)」  阿佐田哲也  (角川文庫)
「手前っちは、家つき食つき保険つきの一生を人生だと思っていやがるんだろうが、その保険のおかげで、この世が手前のものか他人のものか、この女が自分の女か他人の女か、すべてはっきりしなくなっているんだろう。手前らにできることは長生きだけだ。糞ォたれて我慢して生きていくんだ。ざまあみやがれ、この生まれぞこない野郎」
 泥酔したチンピラのセリフなんですけどね。このセリフは”ドサ健”という作中人物のセリフで、彼の言う「保険」とは、お金で赤の他人に自分の人生を保証してもらう商業システムであり、そのために必要な社会的ステイタスであり、保険にはいる資格である定期的な収入をもつ善良な市民でありつづける生活スタイルであり、「タマシイの安全ベルト」の象徴ですね。ヤクザかカタギか? ということです。
 この”ドサ健”は、そのような「タマシイの安全ベルト」を、ひとつも持たない。親戚づきあいはないだろうし、なぐさめてくれる友も恋人も不要、老後、子供に食わせてもらう発想もないので、家庭を作る意志すらない。
 完全に一匹狼で、バクチだけで、己の力のみで生きる人間です。
 自分の好きな事だけやって生きる姿はカッコイイし、男としてあこがれるんだけど、ある人に、「アウトローかっこよく見えるんだけどね、実状がどんなもんか、阿佐田哲也のカミさんが書いた、「宿六・色川武大」(文春文庫)読むといいよ」と言われ読みました。
 阿佐田哲也さんは、晩年の著作で、「私は裏の世界、バクチの場でしか必死や真剣を感じないで、表の世界では欺瞞や偽善しか感じなかったが、青年期が終わった後、なにげない日常が、とてもエネルギッシュでまっとうな火花が散っていることに気づいた」と言っています。
 ぼくは、とりあえず若い人が、マスコミとか芸能界とかの華々しく見えてしまう世界にとびつく風潮に、警鐘を鳴らしたいとは思います。ギョーカイでメジャーになることがクリエイトじゃないんだよ、地味でつまらなそうなモノを自分の力で楽しくすることのほうが創造力いるんだよ、って。ギョーカイの残酷物語を見て見ぬフリして、ダサい日常生活の有意義さを忘れている「メディア」のために、ぼくはちょっと闘おうと思ってします。
 なんでか? って、「メディア」にしか興味のない田舎者は、ぼくの尊敬しているまわりの人間「ダサい普通の人」を冒涜するような事ばかり言うからです。
 ケンカすらできない弱虫ばかりのクセに。(98.07.08)

「ぼくらのSEX」  橋本治  (集英社文庫)
 なかなかSEXをする機会にめぐり合えなくて、「したいなー。してみたいなー。でもひょっとして、自分はSEXなんかできないのかなー、相手だっていないしなー」と思っているところで、「やっとSEXができた!」になったら、「あーよかった。自分もちゃんとSEXができるんだ」と思うでしょ?
 自分に関する自信だって生まれるでしょ?
 そういう時に町を歩いてごらんなさい。いろんな人がいて、そういう人を見ても、それまでは「自分とは関係ない人たち」と思っていたけれど、SEXをした後というのは、「そうか、人間って、思いがけない形で、人と関係を持てちゃうんだな」と思うもんです。そして、「自分はちゃんとSEXができた」と思う自信は、「そうか、自分は、もしかすると、あそこを歩いている人ともSEXができるんだ」という、「新しい可能性」を胸に描かせるもんです
 「性」という字は「生きる心」と書くんだ(リッシンベン=心)、と真正面から論ぜられることのないSEXについて、若い人の心のモヤモヤ、リクツでそういわれてもナットクできない事を、ときほぐさせたら日本一、の橋本治が語る。
 SEXで「あせる」ということは、どういうことで、どうすれば具体的に対処できるのか? こーいうリクツで、どーにもならないことは、論理的なアンサーでなく、勇気を与えてくれる言葉によって背中を押してもらうことでしか、対処できない。
 アタマで納得できたつもりになる、理解できたフリをする「分析」でなく、意志を立ち上げるアドバイスが、本来的に批評や分析や「言葉」に求められたものだ。
 問うて学ぶ、困った時に困らなくする「学問」。SEXの学問がここにある。同性愛、恋、純潔、AIDS、オナニー、欲望、卑猥語、モヤモヤをスッキリさせて、「新しい可能性」を胸に描こう。(98.07.05)

「葉隠入門」  三島由紀夫  (新潮文庫)
 人間一生誠にわずかの事なり。好いた事をして暮すべきなり。夢の間の世の中に、すかぬ事ばかりして苦を見て暮らすは愚なることなり。この事は、悪しく聞いては害になる事故、若き衆などへ終に語らぬ奥の手なり。我は寝る事が好きなり。今の境界相応に、いよいよ禁足して、寝て暮すべしと思ふなり。(聞書第二)

 人間の一生なんてみじかいものだ。とにかく、したいことをして暮らすべきである。つかの間とも言えるこの世にあって、いやなことばかりして苦しい目にあるのは愚かなことである。もちろん、このことは悪く解釈しては害になることなので、若い人などには話すことのできなかった秘伝といったものである。私は寝る事が好きだ。現在の境遇に応じて、家に閉じこもり、寝て暮らそうと考えている。
 「志」。いい響きではないか。若者たるもの、胸に大志をいだくべきだと育てられ、そう育ってきた私にとって山本常朝の「葉隠」こそ、私の、この一冊、である。笑うな、そこ!
 「死ぬことと 見つけたり」「忍ぶ恋」など、の緊張感あふれる不遇だった年寄りの説教は、誤解されやすい。ぜひ原典にあたってほしいが、三島の入門が読みやすい。でも三島から「葉隠」を知った人は、絶対、原典にあたるべきである。(98.07.02)




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