「王立宇宙軍」激突トーク
※ゲスト:河田拓也氏(零細フリーライター)
(2)神なき時代の物語
佐藤 富野さんや宮崎さんの作品の世界じゃ、はじめにまず、その物語世界を 支配してるイデオロギーみたいなものがドカッと実体を持って感じられるね。 富野カントクの「ガンダム」の世界じゃ、連邦政府のズサンな政治の被害者に なってる宇宙移民者の悲惨な暮らしとかが背景にきちんとあって、そこでジオ ンみたいな反連邦の狂信ファシズト集団も生まれる、ってのが凄くリアリティ を持ってる。宮崎カントクの「ナウシカ」でも、腐海っていう過酷な自然の脅 威を前に、それこそ生存を賭けて部族抗争とか大帝国と少数民族の紛争が絶え ずにあってる、ってあたりのリアリティが凄くある。彼らの世代にとっては、 宗教とかイデオロギーみたいな「大きな物語」ってのは生活実感とも骨がらみ だったんだよな。そのへん「王立」は確かにそこがちょっと弱いよね。何せ既 に産業革命が安定期に来て、ぐーたらな若者が都市で無目的に生きてられる、 って世界観の設定なんだから。でも、そこで、俺らの世代の人間が戦乱とかの 過酷な時代を描いてみる、ってのはやっぱちょっとウソ臭いと思う。  山賀カントクが「王立」の物語中で、さんざんシロツグを迷わせといて、で もやっぱり最終的にはシロツグが自分の意志で飛ぶってことにしておきながら、 リイクニの宗教を完全には否定し切らなかった、ってのは中途半端だ、って意 見があるけど、俺はそこは、確かに中途半端だけど「まぁそんなもんだろう」 とも感じてる。「王立」の中でグノォム博士が死んじゃったりして落ち込んだ シロツグが初めてリイクニの教典を開く場面のくだり、あの辺には、自分らみ たいなもはや「喰うに困らない時代」に育っちまったもんで宗教やイデオロギ ーが実感を持ってピンと来ず、むしろ気分的な物として享受されてる、ってと こが結構反映されてるような気がする。で、シロツグが教典を開くとそこには 救いの言葉なんか何もない(笑)、ただ「驕るな人類、文明は罪悪なのだ、悔 い改めよ人類」ってな脅しの文句だけがある。でも、シロツグ君は罪悪である 文明の利器のロケットで飛ぶ方を選択して、そこで申し訳なさげに天から祈る んだよね。このシロツグ君のどっか申し訳なさそな態度が実にいい(笑)。  ニーチェなんかは、キリスト教は人間に良心の疚しさを脅迫的に突きつける 歪んだ弱者の思想だ、とか言ってて、そりゃもっともだとも思うんだけど、で もやっぱ人間が驕り高ぶって暴走するのを抑えるとかいう意味でも、どっかで 宗教みたいなものも必要なんだと思うんだよ。山賀カントクはどっかで、文明 の利器に首までドップリ浸かってることを充分に自覚しつつ、同時に、そうい う人知を越えた物への畏怖(なぁ〜んて言うとオカルトめくけど)も残してお くべきだという考えがあったんじゃないかな。 河田 人知を越えた物への畏怖というよりは、個人主義への驕りに意識的って 言った方がピンとくるな。今のエヴァンゲリオンのライトモチーフとも重なる ように思うんだけど、人間って、やっぱ困った時は正しい親父にいてほしいわ けじゃないですか。こういうこと言うとすぐファシズム待望だとかなんとか言 い出す人がいるけど、俺、なんかそういう言い方の方に無自覚な驕りというか、 狂信みたいなものを感じるんだよな。口では相対主義とか言っていながら。神 様でも社会でも世間でもいいけど、まあ日本の場合は一神教的な厳しい親父を 欲しがるほど過酷な歴史って無かったみたいだけど、まあ漠然とした世間に依 存して生きてる。まあ、最近流行の「世間論」ってやつですが。でまあ、大抵 の人は、普段はそれを自覚するまでもなく、依存し支えられて生活の型を作っ ている。西洋の「個人」にしたって、神様との契約があってこそはじめて支え られてるって感じらしいし。で、まあ、それに綻びが来たり、信じられなくな った時にどうやって自分を支えるかってことで。そこでまた嬉しそうに綻びの 方ばかりあげつらうやつがいるんだけど、そういう奴に限って自分の依存に無 自覚だったりする。だけど綻んでたって、まだまだ崩れきったわけじゃないか らたいていは普段はそこに依存して生きてるもんじゃない。だけど「エヴァン ゲリオン」なんて、それを窮屈に感じたところでバカ正直に自閉と他者依存の 間を両方自己嫌悪しながら揺れまくってて、どこで自分をおとして良いか分か らずに悩み続けてるわけでしょう。だけどそれはぼちぼち生きながら、自分の 背負える欲望とそれに見合った倫理の範囲を自覚していくしかないんだよ。そ れを越えるような現実にぶつかった時はそれはもうしょうがない。その時考え るって感じで。そうなにもかも丸く収まるべきって思想の方が嘘なんでね。な んかこう書くと俺も言ってること地味だな。だけど一方で「エヴァンゲリオン」 も劇場版なんか見てると、自意識の暴発もここまでやると爽快に感じてくると こあるよね。もう笑うしかないっていうか。ちょっともう一皮剥けてきた感じ するよ。富野さんの「イデオン発動編」の域に向かってると言うと言い過ぎか。 なんか「エヴァンゲリオン」の話になっちゃってアレなんですが。 佐藤 おっと、やっぱり「エヴァ」の話になっちゃったね(笑)。でも、実際 ガイナックスの作品てのは「王立」から「トップをねらえ」「ふしぎの海のナ ディア」と来て「エヴァ」と、まぁ。おぼろげなものかも知れないけど、ずっ とテーマ性に一貫としたとこがあると感じる。人間が作りだした文明の両義性 と言うか、人間のしょうもない卑小さだとか文明の害毒だとかを描きながら、 それでも生きてく人間を、そういう人間の作りだした物を(しょうもない部分 まで含めて)肯定してこうとする姿勢、って言えばいいのかな。  ヴァーチャルな「親父」つまり、神サマの話が出てきたけど、俺らの世代な んかってのは、確かに表面的には相対主義的でミーイズムでそんな神サマだか 父権だかなんか求めてないように見えながら、それでいて無自覚なまま依存的 ってとこはあるよな。何に依存してるかってのが、まぁ人類が作りだしてきた システムだったりするんだけど、テメェもその恩恵にあずかりつつ、平気でそ の悪口を言ったりする、リイクニとかナディアみたいに(笑)。  ちょっとこじつけめくけど、「トップをねらえ」でも「ふしぎの海のナディ ア」でも、物語の発端が「父親探し」だってのは結構象徴的な意味があると思 ってる。ひとりぼっちで寄るべない子供が消えてしまった父親を求める、って のは、人類がテメェの不完全さを補うために「神サマ」を想像して宗教とかイ デオロギーを作った過程の構図と同じなんだよね。確か物語類型で「父親探し」 ってのは原始キリスト教の発生での「父親の再創造」ってこととどっかでつな がってるとかなんとか、昔ものの本で読んだことがある。でまぁ、「王立」の 場合は別に父親探しはしないけど、あれはリイクニの宗教に引っかけて言えば、 まぁ、一度神の手から火(文明)を盗んだせいで神っていう親に捨てられた子 である人類が、自らの力で親のいるはずの天を目指す物語、と読めなくもない。 でも、実はそのヴァーチャル親父ってのが本当に自分にとって味方である保障 は何処にもなくて、それは自分の勝手な理想や願望の当てはめだったりもする。 それで実際「エヴァンゲリオン」は神サマを我が手に入れるのがいいことなの か? 悪いことなのか? って話なんだと思うんだけどね。そんで、人類は自 分自身が神サマっていう親父に近付こうとする(親と対等になろうとする)過 程で、同時に親離れを目指してく。自分が成長する上で、否応なく上の世代の 姿っては見なくちゃいけないから。そうして人類っていうクソガキは前へ進ん で行く。大ざっぱに言うと「王立」から「エヴァ」まで、ずっと根底にそんな 思想が流れてるような気がする。  で、ここで「俺はそんな親父知らないよ」とか「俺はそんな親父はキライだ よ」とか言うこともできるけど、それじゃ人間は前に進めないんだよな。80年 代てのは「大きな物語」が無くなった時代だって言われるけど、そこで説得力 ある親父が無くなってしまった結果ってのは、ただ現状維持のニヒリズムが流 行るだけだった。そりゃまぁ確かに前の世代が築いてきたものの中にも問題点 はあるけど、自分もそこに乗っかって生きてきたことは否定できない。まぁそ れで、自分がどうして生きてられてるのかを見据える、ってのが何より最初に すべきことであり、「王立」でも「エヴァ」でもそこに力を置いてるように見 えるね。 河田 はい。というわけできれいにまとめてくれましたが。なんだかまとめす ぎてちょっと違うんじゃないかという気がしなくもないですが(笑)俺はやっ ぱりガイナの中でも「王立」は特別って感じするけどね。物語っていうより小 説ってところがあって。エヴァと違うのは、わざわざあそこまでトラウマ過剰 に意識したがらなくても、もっと漠然とした頼りなさをふと感じたりしながら 生きてる現代のマジョリティー、不特定多数の知的大衆諸君に、自然にしっく りくるんじゃないかと思うんだけどね。公開時期が悪かったのか。オウムの時 なんかも、「ヤマト」とか「ナウシカ」とか「うる星やつら」とかよく引き合 いに出して、おたくのメンタリティーを語ってる奴って多かったけど、これだ け正面からしかも前向きに、自分たちの問題として引き受け対象化した作品が あったにもかかわらず、誰一人触れもしなかったのって不思議で仕方がない。 とにかく、80年安保派オタクの先輩方も「エヴァ」にはまった若者のみなさん も、是非一度観て欲しい。マジで。  あと、山賀さん。なんとしても『ウル』作って現場復帰して頂きたい。おこ がましいのを承知で敢えて言いますが、やっぱり一度は富野さんみたいに、わ けがわからなくなるくらい作りまくってみてもいいんじゃないかと思うんだけ ど。山賀さんの作品って、慎重で、はったりとかなくて、凄く我々の身の丈に あっててしっくりくるんだけど、反面身も蓋もないふてぶてしさみたいなもの に欠けるというか。富野さんのって無茶苦茶強引なのに不思議と説得力ある展 開って多い。それが物語を「箇条書き」じゃなくする体力というか。理に堕ち てられないふてぶてしさって、そういう余裕のない現実を実感する中でしか体 得できないような気がします。山賀さんにはなまじガイナってホームグラウン ドがあるだけに、余程意識的にそういう状況を作りだしていかないと、小さく まとまっちゃいかねない。勿論これは僕ら自身の課題でもあるわけですが。と にかく、個人的にも大きな影響を受けた人間として、これからも山賀さんとそ の作品を見続け、きちんと位置づけていきたいと思ってます。これも「王立」 っていうより、山賀さんを応援する(したからってどうなるというわけでもな いが)ホームページにすればいいのに。って、ファンまるだしですが。ほんと、 「どうせ私たちは宮崎さんや押井さんのお友達ですから」(*)なんて言ってな いで、頑張って下さい。


戻る