「王立宇宙軍」激突トーク
※ゲスト:河田拓也氏(零細フリーライター)
(1)80年代・若者とアニメ・物語の厚み
佐藤 河田先生はライターとして仕事をされてて、取材で富野由悠季氏、ガイ
ナックスの庵野秀明氏、山賀博之氏に直に会われたこともあり、この三氏につ
いては思うところも多い、という人物なワケですが、今回は「『オネアミスの
翼 王立宇宙軍』はこう見ろ!」みたいな話をしたいと思うんですけど、一つ
よろしくお願いします。
河田 いやあ。インターネットなんて見たこともない超アナログ人間なんで、
誰に向けてどういうレベルの話をすればいいのかよく把握してないんですが、
まあその辺は佐藤先生に舵取りしてもらうとして。とりあえず自己紹介をして
おくと、ライターをやっていて、28歳。最近は太田出版『スキゾエヴァンゲリ
オン』『パラノエヴァンゲリオン』を手伝いました。と言っても、アニメに関
しては中学くらいまでは思い切り生活の中心だったんですが、それ以降ほとん
ど興味を失ってしまい、この10数年のことはほとんどわかりません。今回の仕
事で多少は把握しましたが、それでも専門的な知識はないし、「こう見ろ」な
んてのはおこがましいんですが。ただ、この作品には個人的に凄く思い入れが
あって、もっと人目に触れるべきだとも常々思ってました。このページが少し
でもそのとっかかりになれればいいんですが。で、何から話しましょうか。
佐藤 そっすね、まぁ俺の方から、ここで語りたい、って言うか、河田先生の
持ってる情報のスペックだとかとかと照らし合わせて出来る話をざぁっと挙げ
ると、この映画を作った山賀カントクをはじめとするガイナックスっていう集
団の資質の、80年代という時代の中での意味とか、アニメクリエイターとして
先行する世代にいる富野由悠季氏などとの違いとか、また、アニメっていう枠
を外して、80年代論とか「新人類世代」論とかの方に傾けて見たときのこの映
画の位置っていうか、意味って言うかそういうもの。あと、なんで「エヴァン
ゲリオン」はあんなにウケてんのに、この映画は不遇にも黙殺され切ってるの
か(笑)とか、どうにも誤解されがちというか、わかられにくい、この映画の
訴えんとしていたテーマ性であるとか、そういうことを細かくバラして行きた
いんですが……
河田 そうだなあ。俺の場合出身が岡山のど田舎で、周りにわざわざ難しい本
読むようなやつなんかいないし、サブカルチャーなんて言葉さえ知らない。そ
れで、思春期くらいになってまわりのヤンキーとうまく行かなくなったり、親
や周囲の世界への違和感みたいなものを漠然と意識しはじめた時に、分かって
くれる大人とか先輩とか、周りに全然いないわけよ。それに言葉や物語を与え
てくれたりとかして、逃げ場やそれ以上の支えになってくれたのは、ガンダム
とかのテレビでやってたアニメなんだよね。だから、ちょっと上の世代にとっ
ての少女マンガみたいなもんかな。だから俺は、そのころアニメに出会って良
かったんだか悪かったんだかわかんないけど、主観的には大恩を感じているわ
けです。富野さんなんかには特に。だけどだんだん「うる星やつら」とか「マ
クロス」とか「ミンキーモモ」とか、80年安保のアニメ版みたいなのが席巻し
てきて、それはそれで最初は、教室の隅のマイナーな存在でしかなかった文系
人種としては、友引高校みたいな空間を夢見る気持ちは本当よく分かるんだけ
ど、だんだんそればっかりになってきて。全然俺の生きてる日常のあつれきと
かに対して、勇気も指針も与えてくれない。それを相対化して笑い飛ばすって
いう一定の効果はあったんだろうけど、それもなんだか息苦しい内弁慶って印
象があって。だけど例えば岡田さんなんてそれをとにかく称揚しようって立場
だよね。で、一方でガンダムなんかも大人の話になりすぎて、当時はまだ「自
分」のお守りに精一杯だったんで、付いていけなくて。宮崎さんなんかもわか
りやすい正義だから、自分の反抗心みたいなものに自信が無いとき、世間の正
義に対抗するだけの理屈が無くて、最初は自分をその立場に仮託したりするん
だけど、だんだん、知恵がついてくると、今度はシニカルぶってばかにしたく
なるようなもんじゃない。おためごかして格好付けやがってって。自分の焦燥
感もあってエゴの誤魔化しに敏感になってるから。まあ、勿論さすがに今はは
そんなに単純じゃないけど。それで結局アニメから気持ちが離れちゃった。完
全におたくになりきって、同類同士で自足できてた人はまたちがうんだろうけ
ど。それは俺には楽しくなくて。もっとストレートなロックとか文学、思想な
んかにそういう役割を求めるようになっていった。そうやって、文系不良の定
番をやりながら高校時代を棒に振って、進路も決まらず卒業のころブラブラバ
イトやってる時に、なんとなく「オネアミス」観にいったらガーンときたわけ
ですよ。とにかく凄くしっくりきた。アニメの、それもダイコンなんかでわい
わいやってた連中がこんなことになってたとはって驚いたし、それ以上に「あ
っこいつ、まっとうじゃないか!」って。ショックだったし、凄く勇気づけら
れた。
佐藤 んー「80年代に10代を送り、アニメとか一時期けっこう熱中した事もあ
る人」の経歴としては、ありがち、って言ったら変だけど、「こういう人って
絶対いるよな」って感じだよね。俺もまぁそういう感じに近かった。俺の場合
は、小学生の頃の一時期、家に両親はいないで一人でテレビばかり見てた、っ
ていう時期があって由緒正しき「おたく」になってったんだけど(笑)、自分
の自我が作られる過程の原初的段階で、アニメとかマンガとかによってそれが
形作られた、って部分は大きかったね。その辺から話を切り出してくと、80年
前後に「ガンダム」が出てきて、従来「子供のオモチャ」でしかなったような
アニメってメディアで、そういうメディアであればこそ、って形で、少年期の
自我だとかが描かれるようになったわけだよな。で、そういうのって、もっと
昔であれば、「若者のためのカルチャー」ってことで言えば、文学とか映画と
かそれこそロックミュージックだとかがそういう役割を担ってたワケだけど、
70年代後半頃からマンガやアニメで育てられた世代(つまり「おたく」ってこ
となんだけど)ってのが、出てきて、その第一世代によって作られた作品が
「王立」であった、ってわけだな。
で、そんな「王立」評価なんだけど、さっき河田さんが書いたみたいに、こ
の映画ってのは、富野カントクの「ガンダム」が目新しかった点としての「大
人の理不尽に(つまり「世間の荒波」ってこと)に翻弄される被害者的な主人
公像」だとか、宮崎駿先生みたいな「わかりやすい正義」ってのがない。ある
意味じゃホントーに80年代的な、もはや喰うに困ることはない、大人への反
抗、軋轢の生み出す物語のダイナミズムってのが、現実の日常の中には見い出
せない、ってのが出発点になってるわけだよな。で、まぁ、この映画が公開さ
れた80年代中頃ってのはどういう時代であったかというと、地方じゃまだ古い
土着的束縛の空気が残ってたかも知れないけど、若者がみんな全体的にミーイ
ズムの個人主義になってきて、かつての学生運動だとか暴走族みたいな「大人
への反抗」も先細り、そういう時代に育った「おたく世代」クリエイターが富
野カントクや宮崎カントクみたいながっしりした物語を作ってもまがい物にし
かならない、ってのが既にあったわけだ。アニメはこの頃からOVA主流にな
って、俺らの価値観に言わせるとどんどんつまらなくなってったんだけど、こ
の「王立」ってのが、ひっとしたらターニングポントになってたかも知れない
作品だったわけだな。
で、80年代アニメはいかに変遷を遂げたか、その中でGAINAXって連中
はどういう位置にあったか、ってな話に持ってきたいんだけど。
河田 富野さんは、大人の理不尽っていうより、自分たちが持ってるエゴを、
例え子供に対してでも自覚的に描いて見せた人だと思うけどね。その上でニヒ
らずにどう筋通すかって問いをまっこうから引き受けて、駄目な面も込みで自
分の現実引き受けてをみせる。俺はアニメってジャンルというよりは、個人的
に富野さんとか山賀さんのファンというか、その姿勢に凄く共感するんだ。具
体的にどういうところかというと、その「駄目さ」に酔わないっていうかね。
それを語るのが誠実さに見せかけた自己正当化とかナルシズムに墜ちてない。
例えば「エヴァンゲリオン」なんかが、今までおたくが避けてきた生々しい内
面の問題を扱ってるってふうに評価されてて、それはそうだとも思うんだけ
ど、庵野さんはともかく、どうもその弱さに酔いしれて、それをさも最先端の
大問題みたいに言って事情通ぶるやつとか醜悪だよね。日本的ポストモダンの
いきづまりを象徴してるとかなんとかもっともらしいこと言ってるけど、結局
自分をかわいそうって言いたいだけのくせに、同時にそんな議論ごっこしなが
ら幼稚な選民意識持ってるような勉強おたくの若手インテリとか。まあ、だめ
ささえ受け止められずに他人づらしてるおたくも同じように最悪なんだけど
ね。こいつらにとっては、全部趣味とか快楽でしかないんだよ。オウムの連中
がストイックに修行してるように見えて、実は他人の視線を遮断して自分たち
の都合に開き直ってアヘアヘやってるだけってのと同じで。庵野さんは、最初
はとにかくワケ分からない内に自分を吐き出し始めたんだろうけど、それでナ
ルシズムに流されそうになったりもしてるけど、少なくともそのみっともなさ
を誤魔化そうってずるさはないと思う。映画の予告編を見る限り良い線いって
るよね。「私はあなたじゃないもの」って。自分を引き受けるってところと、
克己心をちゃんと持とうとはしてる。キツくなって流されそうになってはダッ
チロール繰り返しながらも。
で、富野さんとか宮崎さんとか、おじさん世代の作品とか言動を見てて、よ
く思うんだけど、凄くたくさんのタブーを持ってて、文字面自体はそんなに面
白くなかったりする。やっぱり押井さんとかさらに若い世代の方が、タブーな
いし小回りきいてて刺激的ではあったりする。だけど、なんか信用できないっ
ていうか、重みがないんだよ。状況に縛られてないっていうか、ああも言え
る、こうも言える、何とでも言えるって感じで。なんか遊びなんだよな。おじ
さんたち、特に宮崎なんて時代やイデオロギーに凄く縛られてる人だから、な
かなか思い切って立場を変えることができない。だけど、鈍重な分、動く時に
は凄く考えてる。黙って水面下でずーっと考えてて、ばっと生き方を引き受け
る。だから、「もののけ姫」の重量感って凄いじゃん。富野さんになると、オ
ヤジ世間の建前のそらぞらしさにも、「個人」の嘘くさいうすっぺらさにも早
くから感覚的に嫌悪感持ってて、だけどその中で生きていかざるを得ない。そ
して、その中にこそ偉大で愚かな人間のドラマがあるってとこだな。しかも、
それに酔うだけじゃなくて、そういう人間を支えてくれる下部構造、伝統とか
自然と肉体とかいろいろ言ってるよね。同時にそうなにもかも丸くは収まらな
いって実感もある。厚みのある態度だ。
まあ、富野さんについてはまた本業の方でじっくり書くけど、これが山賀さ
んになると、世界の方がなんとなく、迫って来ない。状況がはっきり自分を規
定してくれない。だけど、そこでエヴァと違うのは、個人的な内面の説明をく
どくどしないってことだな。目の前の状況と、どう対処するかでキャラクター
が描かれていく。シロツグは普通の中産階級だってことしか説明されてないも
んね。で、タラタラ暮らしてて、当たり前だと思いつつも、それに漠然と所在
なさも感じてる。だから、佐藤も言うように反抗心って言うのとは違うよね。
だけど、きっかけは何でもいいんだけど、当たり前と思ってきたことに本気で
向かい合って前向きになってしまったりしたとたん、いきなり水面下に矛盾や
問題を抱えた現実、エゴや力関係が見えてきて、実は自分がそれに対して何の
判断能力も持っていないことに気付く。そこで出来ることは、マティーのセリ
フじゃないけど、立場を見つけてしっかりそれに取り組む事しかない。だから
それは、ロケット打ち上げじゃなくても、就職でも結婚でも出産でもなんでも
いいわけで。で、「オネアミス」っていうのはそこまでなんだよね。だから良
くも悪くもきれいな青春映画。だけどシロツグは地上に帰ってくる。曖昧で、
しかもそう選択肢の多くない日常で、一つ一つ自分の欲望や倫理感の幅を確認
しながら実感を蓄えていくしかない。山賀さんって、富野さんと違ってそうケ
レンのある人ではなさそうだし。だけど、そのかわり着実に蓄えてくれてそう
な気はするんだけどね。正直人ごとじゃないんだけどな。マンガの「お茶の
間」も「宮本から君へ」も中途半端なところで切れてるしな。時間かかるよ。
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