[ NO.0511 ] [ 98/01/23 04:10:54 ]  [ 投稿者:大蟻喰の生活と意見 ]
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RE:509 長文注意! 四百字詰め二十枚。六月四日、日本有権者連盟での講演「教科書問題をめぐって」原稿採録。

 えー、私、こう言う形で話をさせていただくのははじめてです。天下国家の問題のプロだと自称する気も全くありません。ただ、色々見聞きするうちに、流石にこれは拙いんじゃないか、と考えた次第をお話しし、皆さんのご意見を伺いたい、と思っております。



 正直なところ、タイトルを決めてから、色々雑誌を買い漁って研究する間に、この問題にはうんざりしてしまいました。問題には、と言うより、「新しい教科書を作る会」には、と言った方がいいでしょうね。何故まともな反対意見が殆ど出ないのか不思議に思っていましたが、まああれでは仕方がないでしょう――触ると馬鹿がうつる、みたいな感じがありますから。私は最初からあんまりお利口ではないので平気ですけど。



 「正論」のシンポジウム記事を見てみましょうか。尖閣諸島の問題は日本と中国を争わせようというアメリカの陰謀だとか、世界中が日本人の預金を狙っているとか、よくもまあいい大人が、昼日中から、大真面目に口に出来るものです。ちょっと飲ませて酔っ払わせたら、全ての裏にはユダヤが、とか、フリーメーソンが、とか言い出すんじゃないですかね。こう言う陰謀史観というのは、とっくに駄目になっている人、使い物にならない人、公の場で発言する資格のない人を判定するリトマス試験紙みたいなものですけど。兎も角、これじゃ「新しい教科書を作る会」なんざ真面目に相手に出来るか、と考えられても仕方がない。実際、主要メンバーの一人は仮病で欠席だし――尤もこの人、アジるだけアジっては転向して、かつての同士のことを暴徒よばわりするのが習慣という、天下御免の卑怯者ですけど、今度はいつ裏切るのかな――比較的まともなことを言っている、と言うよりは失笑ものの発言をしていないたった一人は、会自体からは距離を置きたがっているそぶりですよね。もしかすると来年までもたずに自然消滅しちゃうかもしれない。だとすれば私がこんな風にしゃしゃり出る必要はない訳ですが、たぶん自然消滅はしないだろう、と言う予感が、私にはある訳です。それどころか、うっかり文部省が白旗挙げちゃったとしても、解散なぞせずに、全ての日本人が誇りとやらを取り戻すまで戦うんじゃないか、と。



 嫌な予感はあったんですよね。実は私、とある新人賞の下読みをしていたことがありまして、バブルが崩壊した次の年だったかな、ちょっとうんざりするようなSFを読まされたんですよ。モビルスーツ着てがちゃがちゃやってるゲリラが日本を占領したロシア軍と戦う話。クライマックスで、日本をロシアに売り渡したと思われる黒幕を追い詰めて行くと、これが実は主人公の生き別れの父親。売国奴になっちゃった理由を聞くと、「日本人に戦う心を取り戻して欲しかったのだ」って――応募者はとある総合商社勤務の三十才でして、まあ、不景気で干されていたんでしょうねえ、大長編でしたから。それに、このメンタリティでは立派な商売人にはなれませんよね、こういう原理主義的メンタリティでは。



 何かひとつ、私に指摘できることがあるとすれば、それはこの原理主義的メンタリティという奴です。日本に限らず、今や全世界的に、あんまり理性的ではない人々を捕まえているメンタリティです。



 一番の大枠から申し上げましょう。ハーバードかどこかの教授が、何年か前、「文明の衝突」とかいう文章を書いて有名になりましたよね。冷戦後の世界では、7つだか8つだか9つだかの文明が覇権争いをするのだと言う、殆ど東宝の怪獣映画、富士の裾野で三大怪獣が組んずほぐれつのバトルロイヤル、みたいな話を。



 私はあれを、幾つかの点で、完全な間違いだと考えています。



 第一に、文明の衝突はとっくの昔、十五世紀にヨーロッパ人が帆船を仕立てて大砲を積んで海を越えようと企てた時に始まっています。第二に、文明の衝突は、巨大な塊と塊がぶつかりあうものではありません。文明そのものが均一な要素から成り立っているのではない以上、その衝突は必ずしも堅い衝突ばかりではなく、むしろ均一ではないもの同士が接触し、揉み合いながら相互に浸透しあう過程になるはずです。第三に、確かに、十五世紀において既に、資本主義と帆船と火器で武装していたヨーロッパ文明は圧倒的に強力でした。にも拘らず、衝突による影響は相互的だったと言えるでしょう。第四に、その影響は不可逆的なものだ、と言うことです。混ざり合った諸要素を分離するにはマックスウェルの悪魔の助けが必要になるでしょう。私には歴史を祭り上げる趣味はまるでなく、当然、そこに法則を求めたりするのは間違いだと考えています。が、それにも拘らず、認めざるを得ない法則はあります――エントロピーは不可避的に増大するという法則です。第五に、現在の世界には、この衝突の影響を蒙らずに暮らしている人間は、ほぼ一人もいません。パリの十六区のアパートに住む高級官僚やマンハッタンのペントハウスに住むプレッピーからアマゾンの上流に住む先住民まで、この地球上に住む人間は誰も彼も、この衝突の影響の下に暮らしています。



 原理主義的メンタリティ、と私が呼ぶのは、この不可逆的な変化の最終段階に現れた拒絶反応のことです。これが終わった時には、世界は、驚くほど平坦で均質な様相を示しているでしょう。オピニオン業界の人々が言うような、普遍性を標榜するアメリカニスムの勝利、とは別種の均質性です――アメリカニスム自体もこの過程で発生したものに過ぎませんし、それさえも最終的には、他の要素に相殺されてしまうものでしょうから。



 何故こうした反応が起こるのか、を考えてみましょうか。



 ある文明が他の文明と衝突すると、どちらの文明も変質します。不幸な場合には占領や征服と言った形で、半ば強制的に異質の文明を受容することになりますし、一方、征服した側、占領した側も、まずその状態を作り出し維持する為に必要なコストによって、更に、収奪によって得られる富によって、変化を蒙ります。より長期的には、占領地・征服地・植民地の産物や文化が影響を及ぼしてくるでしょう。移民や入植と言った形での人口の移動の影響も小さくはありません。



 たとえば新大陸発見以前のヨーロッパにはトマトも唐芥子もなかったことを考えてください。またアフリカ大陸の収奪なしにはポップミュージックはあり得なかったことを。我々が今日極めて雑に、西欧文明、と呼んでいるものは、本来ヨーロッパにあったものではありません。ヨーロッパの人間が帆船と大砲で圧倒する、と言う形で他の文明と接触し、影響を受けた結果、成立したものです。フランス人あたりは時々思い出したようにアメリカの文化侵略を非難しますが、そのアメリカの文化侵略自体、ヨーロッパ人が新大陸に進出した結果の逆流だと考えなければならないでしょう。



 複数の文明が接触すると、そのどちらも、変化を蒙ります。例に挙げたのは個々の人間の外側を取り巻く世界の変化ですが、その変化は否応なしに、一人一人の内側に食い込み、取り除くことのできない一部になります。



 原理主義は、自分の内側に何か異質なものがあるのではないか、その異質なものの為に、本来の自分が損なわれつつあるのではないか、自分が自分ではないものになってしまうのではないか、と言う不安から始まります。或いは、はじめに漠然たる不安や不満があって、その後で自分の中に異物を発見するのかもしれません。原理主義が多くの場合、社会的に挫折していたり、じり貧な状態にあったり、出口なしに陥っていたりする人々の間で説得力を持つ理由です。ただし、少し冷静に考えればすぐに判ることですが、この異物は我々の一部を形成しているので、外科手術的に取り除くことができるものではありません。



 ただし、取り除くことが可能であるかのように考えることはできます。それには二通りの方法があります。





 ひとつは、自分のコアを作っていると見做した部分を強調することであり、もうひとつは、自分の中の異質な部分を外の世界に投影することです。宗教上の原理主義が前者に当て嵌まります。実際には宗教を、「本来の自分」ないし「自分たち」を強調する為に利用しているだけだと思いますが、教義を厳格に守ることで、内なる異質さから逃れられると考えてみる訳です。進化論を学校で教えないように訴訟を起こす連中とか、チャドルを着ずにテレビに出る歌手を脅迫する連中とかが、この範疇に入ります。チャドルを着て学校に通う女子学生は政教分離の原則を侵しているんではないかと大騒ぎをした人々と言うのも、或いは原理主義的世俗主義者と言っていいかもしれません。


 もうひとつは、異質な部分を外に投影し、攻撃する方法です。ドイツのネオナチやフランスの国民戦線、アメリカのミリシアなどを考えていただけばわかりやすいでしょう。移民や外国の影響を排除すれば本来の自分たちに戻れる、と夢想する訳です。



 二つの方法のどちらかひとつ、と言う訳ではありません。多くの原理主義運動は二つの方法を併用しています。内にあっては国柄と伝統に立ち返り、外にあっては純血の為に戦う、と言う訳です。



 ところでこう言う人達を相手に、だっておれたちは元々ある種の混血じゃないか、と指摘するくらい危ないことはありません。それを見たくない一心で原理主義者になる訳ですから。サルマン・ラシュディがやったのはまさにそれでした。「悪魔の詩」までのラシュディの作品は、否応なしに欧化したイスラム教徒の陥るジレンマを扱っていたと言っていいと思います。「東と西」という短編集では、あんまり出来がいい短編集とは思わないですが、東か西かという選択は不可能だ、と言う宣言をしています。確かに、今や我々にそれ以外の途はないと言えるでしょう。迂闊にそんなことを言うと原理主義者に殺されちゃいますけどね。



 ところで、曝されている状況は同じであるにも拘らず、不幸なことに日本には、そういう形で利用できる宗教はないし、移民もいないし、外敵もいない訳です。



 数年前、その対象は、それこそ東洋対西洋、と言う形で追及されていました。今でもやっている連中はおります。デカルト主義の西洋に対する東洋の知恵、とか、西洋の物質文明に対する東洋の精神文明、とか、西洋の消費文明に対する東洋のエコロジー思想、西洋の一神教的排他性に対する東洋の多神教的寛容、とかです。世界で二番目に消費文明に溺れている国の住人がこういうことを主張するのはどうも説得力を欠くし、と言うことは我々は既に賢明なる東洋人とは程遠いし、何よりこの種の議論は些か高踏的という訳でしょう、一部の知識人以外には、これは極めて漠然たる影響力しか持ちませんでした。ターゲットが、所謂東京裁判史観とやらに移って来たのはいつ頃からですかね。これは大分具体的でしょう。もちろん東京裁判が何やら手前味噌で偽善的な代物だったことは誰だって知っていますから、馴染みやすくもある。なおかつ、原理主義的心情の要求にもぴったりそぐう。



 敵は、それこそマインドコントロールを掛けてきたのだ、と言う訳です。誇るに足る戦いだった大東亜戦争を侵略と虐殺の恥ずべき戦いであったように吹き込んで日本人の自信を失わせ、そこに本来異質なものである筈の価値観を流し込んで洗脳したのだ、今こそ、この異物を排除し、日本人としての誇りと純粋さを取り戻すのだ、と。内なる純化が目指され、外なる敵が明示されている。我々の内側に否応なく食い込んでいる「西」が、アメリカという形で具体化され、内部への侵食の過程が、東京裁判とGHQによる検閲と言う形で明示され、戦後民主主義の御託と言う形で具体化されている。判りがいいでしょう。それこそ中学生にだって飲み込める。大人でも危うくやられてしまいそうになるでしょう――特に、人生がつまんないような気になっている時には。理屈だってそれなりに合っているように見えますしね。



 ただ、忘れてはいけないのは、これを主張しているうちの一人は、さっきちょっと笑いものにした気の毒なパラノイアの人だと言うことです。しかもあの場にいた人たちは誰も、ああいう陰謀史観を大真面目に信じて公言する仲間がいることを、まずいとも思わないらしい。



 まあ、それはそれでいいでしょう。負けが込んでいる時には、陰謀史観は原理主義と同じくらい魅力的なものですから。バブルの崩壊だの不景気だのどうも重役になれずに子会社出向だのが全部フリーメーソンの陰謀だったら、これは人生実にすっきりと楽になりますからね。何か互いに異なるものが自分の中に並存し、混じり合っている、を文化侵略やマインドコントロールのせいだと考えるのと同じくらい単純になります。どうも日本の状況が――と考える時、実は自分が日々向かい合っている状況をすり替えている訳ですが――納得がいかないと思っていたが、これはアメリカが日本人を洗脳したせいだったのだ、となれば、もう大して悩む必要はない。「新しい教科書を作る会」が、実に堂々たる受け皿を用意してくれていますしね。「文藝春秋」で大月某が、どういう人々が集まってきたかを威張っていますけど、あれは決して威張れたものではありません。案の定、自己分析の甘い、極めて原理主義的な人々だと言うことが明かになっているだけです。



 この辺で結論を纏めましょう。



 例の「教科書が教えなかった日本史」を見る限りでは、あの運動は全くのナンセンスです。あれは修身の教科書には使えるかもしれないけれど、悲しいくらいに歴史の教科書ではない。尤も、「作る会」は歴史を教えることには全然興味がなくて、真善美を教えることに夢中になっているようですから、まあ、出来てくるのは修身の教科書でしょうね。



 ところで、私個人の感触からすれば、歴史くらい真善美から程遠いものはありません。何しろ、私やあなたと同じ人間が仕出かして来たことの総体ですからね。歴史を誇れるのは詳しく知らない間だけで、よくよく調べるとどこの国の歴史も結構恥ずかしいものです。フランス人なんか、よく顔を上げて歩けるものだと思いますよ。きちんと調べれば、どこの国の歴史も同じくらい非道い。



 では、歴史を学ぶのは何のためか。幻滅と諦めを身に付ける為です。人間に出来ることなど多寡が知れていると思い知る為です。そこからはじめて、現実に対する肯定とリアリズムが出て来る。



 日本に必要なのは、日本人としての誇りと希望に顔を輝かせた人材ではありません。現実には軍事・外交上の完全なオプションを有してはいない――つまりは、時々勘違いしている人がいますが、完全なる主権国家ではない――極端なことを言えばアメリカの衛星国である日本が、現状をベースにして最大限の行動の自由を確保し利益を引き出すにはどうすればいいかを、至極散文的に考えることのできる人間です。或いは、宙吊りの状況に幾らでも耐えることのできる神経を持つ人間、様々な文化や文明のごった煮の産物である自分を肯定して、混乱することなくごった煮の世の中を泳いで行くことのできる人間、です。何なら、特に日本では、と言ってもいいでしょう。このごった煮の状況は複雑だし曖昧だし危険でさえある訳ですが、舵取りさえ誤らなければ、日本にはむしろ都合がいい。ただし、うんざりするくらいのリアリズムが要求されるでしょうが。


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