「この場面はこう観ろ!」などとエラそーに書きましたが、要するに主な場
面についての解説です(平岡正明氏の「筒井康隆はこう読め」ってののノリの
マネなんだが)。
※「10大重要シーン」とか書いときながらまだ実は四つしか上がってねぇ!
しょーがないんで、ひとまず書き上がってる分だけ載せときます。
●宇宙軍の日常
「ガンダム」以降、いや「ヤマト」以来、SF的設定のアニメの中で軍隊と
いう場をリアルに描こうとする試みは何度も行われてきた。しかし、軍隊なら
ば当然つき物の筈の「訓練シーン」を、スポ根的文脈抜きに、何気ない日常生
活描写の一つとしてリアルに描いて見せた例というのは寡聞にして聞かない。
「ガンダム」シリーズでの軍隊の描き方は、今にして思えばアニメにしてはか
なり考えられた描かれ方ではあったが、それでも大抵の場合は「大人の理不尽
に巻き込まれた可哀相な被害者としての子供」という視点で描かれているのが
惜しむべき点だった(まぁそれは描こうとしてる世界の違いなんだけどね)。
しかし、この映画の冒頭部分での「宇宙軍」のリアルなだらしなさは「大人
の理不尽に巻き込まれた子供」の被害者意識とは完全に一線を画し、無気力な
日常を送るしょーもない自分自身を見事に描いて見せている。
このシーンの雰囲気というのは、例えて言えば、ずばり、何らかの志を抱い
て地方から上京してきた青年が(地方在住のままでも良いが、とにかく、一度
家を出て「新しい生活」を目指したってコト)、入った学校なり職場なりの雰
囲気にだんだん慣れてしまって、初めの内こそ刺激的で新鮮だった生活が次第
にルーティン・ワークとなって輝きを失い、かといって今さら帰る気もなく、
なんとなくウダウダしている………という気分に恐ろしくソックリだったりす
る。実際、自分は高校を卒業して東京に出てきてから2年ぐらいした時に久々
にミニシアターでこの映画を観て、この冒頭場面にひどく深く思い入れした記
憶がある。
言ってみればこの場面はウダウダとアルバイトしてる時、あるいは無気力に
講義を受けてる時、はたまた職場で「あーあ。やってらんねぇぜ」とボヤいて
いるその時の我々自身の姿だったりするのだ。
この場面は、そのことを念頭に置いて観て欲しい。20歳未満で、汗水流した
ことない人には分かりにくいかも知れないけど(別に皮肉じゃないよ)。
●リイクニとの出会い(執筆中)
●初めて空を飛ぶシロツグ
シロツグが将軍の命令により重力訓練のために空軍の戦闘機に乗せてもらっ
て生まれて初めて空を飛ぶシーンは、この映画の前半部分の大きな見せ場だ。
シロツグが飛んでいる場面は、まさに劇場の大画面のために作られているよう
な映像であり、映画館で観た時は本当にスクリーンの中の空が美しく見えた。
是非とも可能な限り大きな画面で観ていただきたい場面である(カンケーない
けど俺の勤めてる会社じゃ今、フライトミュレーターのソフトを翻訳してる)。
今にも雨が降り出しそうな不安げな雰囲気の地上から離陸して、厚い雲の層
を抜けた瞬間に、そこには明るい太陽の光が射し、素晴らしく広々とした空間
が現われる。なかなか憎い見せ方ではないか。広々とした青空の中をレシプロ
機が木の葉が舞うように曲芸飛行する場面も実に美しい。
飛行を終えて帰還すると地上は暗くどんよりした雲に覆われ、どしゃ降りの
大雨、更には空軍の連中がいけすかない態度でシロツグたち宇宙軍士官をから
かってくる。空の上はあんなに美しい世界だったのに、俺たちのいる場所はこ
んな世界かよ……という、実に痛烈な対比が効いている。続いて描かれるのが
空軍下士官たちとの喧嘩のシーンだが、これがまた、それまでシロツグ同様無
気力だった他の宇宙軍士官たちが初めて自らの誇りを賭けて争う、ってな感じ
で良い。
さて、アニメの世界では一般的に、「空を飛ぶ」ということがいとも簡単に
描かれる。それに今どき大抵の子供は生まれてから一度はジェット旅客機ぐら
いは乗っているだろう。しかし、「空を飛ぶ」ということ、ことに自分が小さ
なコクピットに座り、与圧も完璧ではない高空を実際に体験するということの
原初的衝撃は、実際には味わったことのある人間はそうおるまい。この場面で
は、そんな「原初的衝撃」がリアルに描かれる。GAINAXの代表作の一つ
「ふしぎの海のナディア」でも、副主人公のジャンが自らの造った飛行機で飛
ぼうとする場面が非常に綿密に描かれているが、それは「空を飛ぶ」なんてア
ニメじゃ見慣れてるから大したことじゃないように見えるけど、本当は凄ぇこ
となんだよ、ということを雄弁に語語ってるかのように見える。
●リイクニの教典(執筆中)
●彷徨するシロツグ(執筆中)
●マティと金物屋にて
一度でもこの映画を観たことのある人間であれば、大抵の人が非常に気に入
っていると言うのがこの場面。
「なぁマティ。もし、現実が一つの物語だったとして……」
「あんだぁ?」
「……もしかしたら、自分は正義の味方じゃなくて、悪玉なんじゃないかって
考えたことないか?」
「………さぁな。ただ、周りのやつら、……親とか、みんな含めてだ、そいつ
らが、俺をほんのちょっとでも、必要としてくれているからこそ、俺はいられ
るんじゃないか、と思っている。この世に全くの不必要なものなんてないの
さ。そんなもの、いられるはずがない。そこにいること自体、誰かが必要と認
めている。
必要でなくなったとたん。消されちまうんだ。そう思う。………どうだ?」
「………うん、分かった。ありがとう」
自分はなぜ生きてるのか? 自分は正しいのか? 自分は世の中から、周り
の人間から必要とされてるのか? よほど現実に充足して生きていられる幸福
な人間でない限り、誰しも一度くらいはこんなことを考えたことがあるだろう。
GAINAX作品では「ふしぎの海のナディア」「新世紀エヴァンゲリオン」
と、そのことが繰り返し問われる(ちなみにその不安につけ込んで、「ここに
与すればアンタ安心だよ」と若者を誘惑してたのが例の純粋性信仰の真理教だ
ったけどさ)。
まだ社会に出て何の役割も果たしていないのに、ついうっかり若くして「自
分は周囲の人間とは違う」という自意識だけはしっかり持ってしまった人間、
というのがいわゆるオタク、ひいては「近代の若者」ってヤツだが、そういう
人間は、ともすれば「個人」先にありきという考え方をしがちだ。しかし、単
品で、ただ生きてるだけのままで「素晴らしい人」なんてものはない。なぜな
ら、人間の価値ってのは他の人間との関係性によって与えられる役割だとか立
場性によって決まるからだ。
この場面は、アニメというメディアでそのことに気づかせてくれる希少な名
シーンであると言って良いだろう。
●強敵・暗殺ババァとの対決(執筆中)
●マナとシロツグ(執筆中)
●迫る敵軍、飛ぶロケット(執筆中)
●BGオンリー シロツグの見たもの
宇宙に上がったシロツグが宇宙船から祈りを捧げると、昇る太陽が目に飛び
込んでくる、まぶしさに目を閉じるシロツグ、その瞬間に、彼が生まれてから
見てきた世界と、彼が今このロケットで宇宙に到達するまで人類がたどってき
た道のりが頭をよぎる。
この場面、公開当時にはいまいち理解され難かったらしく、こう解釈した人
がいたとか。ロケットが事故って爆発→死の間際のシロツグの脳裏に過去の記
憶と人類の歴史がよぎる→木端微塵となったシロツグが雪となって地上のリイ
クニの元へ降ってくる・・・おーいおい、エンディングの映像のラフスケッチ
画の最初は、地上に帰還するシロツグ(海から回収される宇宙船、宇宙船から
出てきたシロツグ)の絵やぞぉ、もっぺんようと見ちくりやぁい!
で、結局この誤解を招くクライマックスシーンは何だったんでしょう? そ
いつは「エヴァンゲリオン」のTV版最終2話じゃないけど自分で考えて下さ
い。観た人の数だけ答えはあるんでしょう……なんて書くと「『2001年宇宙の
旅』以来の、なんか小難しいワケのわからんことをやりゃあ高尚」っていう、
SFオタの悪い病じゃないの? ってなツッコミも返ってきそうなんでちょっ
と俺なりの解釈でフォローしときます。
なんか俺もようと知らんのですが、実際にアメリカだかの宇宙飛行士で、当
時最新科学の粋を凝らしたハイテクメカのロケットで宇宙に行って、でもって
宇宙から地球を見てみたら神の存在を確信するようになった、てなことを言っ
て宣教師になっちゃったとかいう人がいるそーです。科学も突き詰めてけば理
不尽に行き当たる、とかなんとかいう物言いは良く言われることですが、別に
シロツグ君が神秘体験(みたいなもの)をしちゃった、ってのはそんなオカル
ト的なもんだとは思いませんね。そいつはもっと素朴に、そこで彼は、自分が
単独ではなかった、つまり原始時代からの積み重ねがあって、それがいいこと
なのか悪いことなのかわかったもんじゃないんだけど、とにかく人間ってのは
「火」を手にして、戦争だとかバカなこともいっぱい繰り返して、そんな途方
もなく膨大な積み重ねの最末端にあって、今俺はここにいるんだ、ってことを
確信した、で、いいことなのか悪いことなのかわかったもんじゃないけど、人
類はこうして進んできて、これからも進んでくだろう、当然この俺も、ってな
ことなんでしょう、たぶん。
えーっと、山賀カントクがこの映画をつくるに当たって企画書で言ってたこ
とに、近現代の若者の、実際に体験する前から分かった気になって「そんなも
んさ」という態度を取ってしまう、って気風を打ち破りたい、ってなことがあ
りました。この物語のはじめの方でシロツグ君がウダウダしてたのは、要する
に自分の居場所が、自分が何者なのか、自分のすべきことが分かってなかった
からなんです。で、シロツグ君は、自分がどうして生きてるのか、今ここに自
分があるという状況に至るまでの水面下の膨大な下部構造、人間関係の網の目
の積み重ねの末端としての自分を再発見するんですね。昔の人は地縁だか血縁
だかナショナリスムだかによって自分のアイデンティティを保障されてました、
近代以降、そういう束縛はぶっ壊れる一方の傾向で、人間は段々「個人」にな
ってく、でも、そいつって実は不安なことだったりする。何だかんだ言っても
「誰も一人では生きられない(『機動戦士ガンダム めぐりあい宇宙』)」。
でも、近代の若者ってのは、ついついひとりになっちゃうもんで、特にオタっ
て言われる人種はそうだったりする。だけど「人は一人で生きてちゃいけない
(『ふしぎの海のナディア』)」。
こうしたことをマクロなレベルにまで広げていって見せようとしたのが、あ
のシロツグ君の脳裏をよぎったイメージだったんじゃないか、と俺は思います。
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