| ■※遠藤浩輝『遠藤浩輝短編集1』『EDEN It's an Endless World!』第1巻(講談社)■ |
| 「あらかじめ全てが語り尽くされてる世代」が語り始めた声(文責:佐藤賢二) | |
| (執筆:1998年10月) | |
| ●スカも共感も含めて同世代人、遠藤浩輝 98年春に『遠藤浩輝短編集1』『EDEN It's an Endless World!』第1巻の2冊の単行本を上梓した漫画家遠藤浩輝は、漫画家としては私が現在もっとも「同世代」を感じる人物(これは一時期の安達哲以来だろう)の一人だ。 月刊「アフタヌーン」97年11月号での『EDEN』第1話のハシラの近況を読むと「『パタリロ』のバンコラン少佐と同じ歳になってしまった」云々と書いているから、この時27歳、逆算すれば1970年生まれ、おおっ、だとすればまさに私と同じ歳の筈である。 遠藤の作品と最初に出逢ったのは96年の春、地元(福岡)の先輩と電話で話していて紹介されて読んだ。その先輩は特にマンガに詳しいわけでもなく、他の趣味でも私とはけっこう志向が異なるはずだが、先輩の薦めで読んでみたら久々に自分とフィットするいい作家に会えたという気がした。が、怠惰な私はその後もこの遠藤浩輝の名前をチェックするようなことは見事にさぼってた。それから一年以上も経った97年秋頃、私の身近な友人の中でもマンガには含蓄の深いことで一目置かれるNが、かなり真剣に「アフタヌーン」で連載の始まっていた『EDEN』を薦めてくれ、以来遠藤氏はなかば目が離せない同世代人の一人になっている、という次第だ。 私が彼の作品に強くシンパシーを感じるのは、言葉にしてしまうと非常に陳腐になってしまいそうだが、敢えて思い付くままに挙げると「すべて語るべき事は既に語られてしまった」という前提に立つ「世界に対する無力感」と、その手応え無い環境に生きる事への「原罪意識のような自己嫌悪」を漂わせつつ、でもその上でも生きていこうとするような「明るい乾いたニヒリズム」っつーか「盲目の希望」への希求、みたいなもんだろうか……って、これじゃなんだかわかんないって? ごめん、うまく言えねえな。 遠藤は、『EDEN』単行本第一巻の表紙カバー折り返しにこう書いている―― 「『エヴァンゲリオン』を14話ぐらいまで見た時、「ああ、自分のやりたかったことは全部やられた」と思った。庵野とかいう人が全部やってくれると思った。でも本放送が終わってから1ヶ月くらいして、自分の感情がやっぱり『エヴァ』からこぼれ落ちていることに気づいた。最終話に不満はなかった。大いに笑えた。でも結局「これがあるから後はもういらない」とは言えなかった。ひょっとしてアニパロをやる人たちは、作品からこぼれ落ちた自分の感情を必死につなぎ合わせて自分だけのストーリーを作ろうとしているのかも知れない。なんだ、皆同じじゃんか。■僕はこぼれ落ちた感情をつなぎ合わせたら『EDEN』の一部になった(後略)」 実際、彼の作品『EDEN』には、「世界が終わった後の、でもまだ続くもの」というか、ある種の絶望や諦観を前提に置きつつ、しかし敢えてその先にたどり着こうという意志のようなものを強く感じる。『EDEN』は、疫病による現文明崩壊後の世界、という作品世界設定のパターン自体は一昔前の『AKIRA』や『北斗の拳』とよく似ていながら、遙かに、言葉の本来の意味でナイーブ(愚直)で、そうそうカラっとは行かない加減がにじみ出ている。 ●放り出された魂――自己嫌悪と自己愛 ……うだうだ観念的な印象を書いててもしょうがないから具体的な話に行こう。ひとまず各作品ごとに見ていきたい。 まず、単行本で読むことのできる彼の最初の作品である『遠藤浩輝短編集1』収録の「カラスと少女とヤクザ」(初出「アフタヌーン」96年2月号)。組織を追われた中年ヤクザ「青木」と、カラスの群と一緒に廃倉庫に住む隻眼の浮浪児の少女の話。この二人の主人公は、共に社会の中に居場所のない疎外された者だ。 青木は銃創を作って行き倒れのままカラスの餌になりかけてたところを少女に拾われた身だ。だが、少女は青木に平然と言う。 「棺桶ごと焼かれて 灰になるのも 他の生物に食べられるのも 土に帰る事では同じ むしろ食べられた方が他の生き物のためにも 良いとは思わない?」 青木は憮然と答える。 「ケッ カラスの糞になるのはゴメンだな」 少女と一緒に住むカラス達は、怪我や病気で飛べなかったり、嘴の曲がったカラスの中の落ちこぼれ達だ。少女はカラス達と、とある「約束」をしていると言う。 「お前さ――左目……どうしたんだ?」 「あげたの カラスに」 青木の問いに少女はこともなげに答える。片眼の少女は手負いの青木に対して無邪気に接し、カラス達にも一羽づつ名前があることを教え、青木は次第に少女に心を開いて行く―― 青木は自らの過去を思い返す――淫売の子と罵られて誰からも疎まれて育った孤独な少年時代に、怪我をした小鳥を拾って治療し、ようやく元気になったところを放してやった矢先に、その小鳥がカラスの餌食になってしまった光景を思い出す。覆い被さる少年時代の青木の独白―― もしあなたが「強者」なら 自然の摂理に従って 僕を食べて下さい 弱いまま生き続けることは 屈辱でしかないから あの時 もしも あの小鳥が食べられずに 空をずっと飛んでいけたら 僕も飛べたかも知れない 僕も違う生き方が できたかもしれない ヤクザ者の青木も、決して初めから強かったワケじゃない、彼もまた生きるためにそれを選んだ一個の弱者だった。 銃創の痛みを止めるために打ったモルヒネが切れると、青木は便所から帰ることさえできず、苦痛でへたり込んでしまう。そんな青木に片眼の少女は言う。 「痛ければ痛いって言えばいい」 その言葉には、蔑みと憐れみが(実は自己憐憫に似たような)が入り交じっているように響く。少女はこう言って青木を抱きしめる。 「弱みを見せるのが怖いの?」 ――なんかお決まりのパターンの虫のいい母性の理想化やなぁ、というツッコミはひとまずさておく。この二人の間に漂うのは、保身と世間体のための蹴落とし合いの社会から敢えて自ら脱落することで、何か虚勢を捨てることで自由になりたいという、素朴な意志のように思える。 だが、そんな二人の共同生活は長くは続かず、二人の棲む廃倉庫には、青木を追って来た組織幹部の「金森」とその部下達が現れる。逃亡者と逃亡先で知り合った女とのひとときの終焉。押井守の『Stray Dog』、北野武の『ソナチネ』(共に元ネタはたぶんゴダールの『気違いピエロ』、といってもコレは元から女連れて逃亡してんだけど)を思わせる展開に進む。 片眼の少女は、青木に駆け寄ろうとしたところを金森に撃たれ、その銃弾の前にあっさりと絶命する。青木は金森に射殺される手前まで行くが、その時カラスの群が金森を襲い、その隙をついて逆に青木は金森を撃ち殺す。駆けつけた刑事の前で「約束」通りに片眼の少女の屍骸はカラス達の供物と化す。 青木の頭の中に少女の言葉が響く。 人は死んで 焼かれて 灰になって 土に返っていくし 煙は空に上がり 雨になって 植物の花を 咲かせ 食べられた動物も 糞になって土に返り 養分となって 花を咲かせる 同じ事 だと 思わない? だから 弱い生き物として 生まれたから といって 嘆くことなんか ないんだよ もとよりカラスと一緒に住んでる女の子の方も、ヤクザの方もこの世に社会的居場所のある人間ではなかった。 片眼の少女の乾淡とした態度は、即ち彼女が初めから自分を死んだ人間と目していたことを暗示させる。そらぁ死んでる人間は死を怖れないわな。 そしてラストシーン、恐らくは警察の病院と思われる建物の屋上、包帯巻いた青木がぼけーっとしてると、鳥の羽音が聞こえ、ふと気づくと白い羽毛が舞い降りてくる。苦笑する青木。 とにかく、ぽーんと放り出されて「おいっ、どーすりゃええんじゃい?」と言いたくなりそうな断絶感だけが残る。 さて、この第一作、最初に読んだ時は「せつないええ話やなぁ」と思ったのだが、今回改めて読み返してみると、困ったことに、良くできてはいるんだけど、その余りに乾淡とした悟りっぷりゆえにあんまり引っかからねぇなぁ、という印象だった。畏友のKは「なんか岩井俊二の映画みたいだねぇ」と言ってた。う〜ん、そうかも知れんなぁ。 劇中の片眼の少女の生に執着しない悟ったような認識は、とりあえず素朴な正論だ。しかし、俗な愚民として言わして貰やぁ、そりゃあ理屈じゃわかってるが、実際人間そう潔くばかり在れるもんでもないし、見苦しくもついつい生きようとじたばたもするもんだし、そのためにえげつないこともやってしまうもんだろう、現に生きてるあんた自身もそうじゃないのかい? などとツッコミの一つも入れたくなっても来る。 ――が、そのへん、遠藤の作品を通して読んで行くと、短編集の最後にある「神様なんて信じてない僕らのために」から『EDEN』と進むにつれ、より「それでも生きてしまう人間」をそのしょうもなさをも含めて描ききろうという志向へとシフトして行く印象が感じられる。 続く「きっと可愛い女の子だから」(初出「アフタヌーン」96年3月号)は、女らしい母親と姉に先立たれ、外に若い愛人作ってる親父と二人暮らししてる少女の話。絵柄とかの雰囲気に、なんとなく山本直樹の影響を見取ってしまった(これは榎本ナリコ(as野火ノビ太)と同じやね)。ちなみにタイトルの由来は、ブランキージェットシティ(アルバム「C.B.Jim」収録「悪いひとたち」)の歌詞だ。 物語は、主人公の少女「美奈子」が、寝たきりで半分ボケてる爺さんのおしめを替えようとして、じいさんの夢精に気づくという衝撃的な場面から始まる。 主人公の美奈子(読書家の眼鏡っ娘!!)は、うっかり考え込んでしまう人間ゆえに、延々と自問自答するばっかで、人間関係のストレスを人間関係自体において解決することができない人間だ。彼女は自分が異性に惹かれる思いさえも、それはそう思い込まされてるだけであって、自分の本心ではないのではないか、と考え込んでしまい、クラスメートにあきれられてしまう――だが、彼女にとっても、自分が一人取り残されているという孤独感だけは抜き難く本物なのだ。 美奈子は友人の「ユキちゃん」に、バスケ部の「関口君」との仲を取り持ってもらいながら、こう独白する。 「自分でもわかんないんだ 本当に 私 関口君のことが好きなのか」 ――以下、恋愛と性欲に関するユングを引用した台詞が延々と続く。 うわあああああぁぁぁ、本当にこんなこと言う中高生見たら俺は泣きたくなるぞ! いや、でも本当にいそうだから困る……って、今、そーいう人がこの文章を読んでない保障はないか……あ、だからこれ、バカにして言ってるんじゃないって、いじめるのが目的じゃないんだからぁ。おーい、逃げないでくれぇ! 本当だってばぁ、しっかしキツいなぁ…… だが、そんなことばっか考えてる美奈子も、決してうぶなおぼこというばかりでもない。父親の部屋で、ちんぽもまんこももろ見えのエロビデオを見つけた彼女は、その映像に嫌悪感を抱きつつも、キャスターマイルド一箱を吸い尽くすまでかけて不快なビデオを最後まで観てしまう。その翌日、眼の下に隈をこさえて登校する美奈子は、昨夜観たビデオの画像を思い出しながら、花壇に咲いている大輪の百合の花(「ウエディングドレス」)を見て、こんなことを呟く。 「そういえば花って 植物の生殖器なんだよね 植物の性器は あんなにも 美しく 人を魅きつける ものなのに どうして人間のは ああも 醜いのだろう」 この独白なんかには「性的身体としての自己」への嫌悪が感じられてならない。 そーいや、一頃「ヘアヌード」ブーム(ケッ)なんてのが起こって、要は「陰毛の見える裸の写真」がやたらになんとかのひとつ覚えみたく「芸術! 芸術!」と言われて騒がれてた時期に、明治仕込みのひねくれじじい山本夏彦翁が『週刊新潮』のコラムに「裸体が美しいなんて嘘だ。人間の裸なんて見るものじゃない」とミもフタもないこと書いてたっけ。そりゃ、耳年増の若年寄が生意気にも、枯れた山本翁の物言いのサルマネなんか口にしてたらむかつくが、脳天気な人間礼賛主義ヒューマニストや、無邪気な「性の解放」「表現の自由」論者がもてはやすほど、人間というのは、何の努力も決意もなくただ生まれたままの格好で裸で突っ立ってるそのままで偉くもありがたくもあるわけはない。そら白痴が偉いと言うのと一緒やんけ、っつーの(あ、矢本広氏の主張と同じだ)。 しかし、幸か不幸か色気づく年頃にはなってしまって、そりゃ抜き難く、異性への関心もオシャレへの欲求もある美奈子は、眼鏡をやめてコンタクトレンズを入れるが、なんか合わなかったり、自分と関口君の間を取り持ってくれようとした筈のユキちゃんが関口君とくっついてるとの噂を耳にしたりと戸惑った末に、何か意を決して父の勤務する会社にやってくる。 父の会社にやってきた美奈子は、父の交際してる若いOLに対峙して聞く。 「セックスって楽しいですか? 男の人に乳房や性器をいじり回されて 気持ちいいですか?」 相手のOLはげらげら大笑いしてしまう――って、そら笑うわな――だが、この年齢の子の気持ちとしてみりゃ、いや、そういうふうに、ケモノみたいに(わー、偏見的)躊躇無くヤりまくれるわけでなく悶々と考え込んでしまう童貞処女の気持ちとしてみりゃ、そんで笑われるなんざ失礼極まりないもんだろう(でも、やっぱこれって童貞の考えることだよなぁ……いや、だから俺も悶々としてる方だからこう言ってんだってばぁ) 笑うOLに、彼女は無言でいきなり包丁で斬りかかる。 彼女の一連の行動には、性的なものを汚れたものと思う一方、だが反面、自分はおぼこくさい奴とバカにされるのも嫌で、早く大人になりたい(でも父親みたいな汚れた大人にはなりたくねぇぜ)というような二律背反する思いが感じられる。 父親の愛人を殺害し損なって(っつーか、本気で殺す気があったわけでもなく、半ば衝動的にとにかく刺そうとしたんでしょうな)、結局、警察の世話になって帰ってきた美奈子は、父親に、「よくできた女の子」だった姉と比較され続けてきた自分の思いと、姉と母の死後、祖父の世話を押しつけられ、内心でそのことに嫌悪感を抱き続けてきたこと、じじいがいっそさっさと死ねばいいと思っていた、という本心をぽつりぽつりと語り出す。 親父は聞く耳を持たずに美奈子をはり倒し、美奈子は、泣き顔を見せまいと「……コンタクトがずれた」と言って洗面台に引っ込んみ、おやじは途方に暮れる。 洗面台の鏡の前で物思いに耽る美奈子、回想の中、女の子らしい姉と木登りしている変な女の子である自分の姿に被さって、こんな独白が語られる。 姉さんは 私の姉さんのまま 死んだ 母さんも 私の母さんのまま 死んだ でも おじいちゃんは 私のおじいちゃんのまま 死ぬことを拒否した 私の知らない 「何か」になって 死んだ だから 父さんには 父さんのままで いて欲しかった ――う〜ん、こうして書き写してみると、随分自分勝手やなぁ、そら自分自身「『いい子』でばかりなんていられない」ってのはすっげーよく分かるんだけど、それ言ったら、父さんにもじいちゃんにも自分の自由に生きる権利はあるやろ、母ちゃんや姉ちゃんがおとなしかったのは、男に隷属するしかない弱っちい生き物(女性一般を指すにあらず、断じて!)だったからやない? と、しょーもないツッコミを入れてしまうのだが……でも実際そーいう女性が美徳とされちゃう世なわけで、それに疑問持ってもそう言う方が変な眼で見られちゃうワケだからねぇ…… そして中空に振るわれるゴルフグラブの絵が一枚――おやじが殴られた事を暗示。男の子だったらここは金属バットだろう――そして目茶苦茶に荒らされた部屋の中、物言わぬ肉塊と化したくそおやじの屍を傍らに、血まみれのゴルフクラブを持って立ちすくむ美奈子は、泣きじゃくりながら学校の「関口君」に電話する。 「ね…… いきなり こんなこと聞いて なんだけど 関口君 初恋の人とか いた?……」 「おい 田村 本当に大丈夫か?」 (中略) 「あ―― うん……いたよ……中学ン時」 「その人とはどうなったの」 「あ…… え――ははは ふられちゃったんだよね…… 卒業式の時に 告白したんだけどさ……」 「そうなんだ…… じゃ その人のこと 今でも好き? それとも…… 憎んでる?」 「いいや 全然 憎んでなんかないよ…… その人のこと 好きになって よかったって…… 今でも思ってる」 「関口君…… ……ありがとう ありがとう…… 本当に……」 「ね…… 大丈夫? 本当に大丈夫?」 (中略) 「おうっ 明日 学校でね」 「うん 明日 学校でね」 彼女は関口君に電話を掛けて何を確認したかったのだろうか。思い込みかも知れなくっても、人は何かに愛情を抱いてしまうもんだ、ということに納得したかったのか…… ここで物語は終わり。またしても「どーせいっちゅうんじゃ!」と言いたくなりそうなオチ。なんか、すげぇ断絶感とか孤立感っていうか、ぽーんと世界に放り出されてぼーぜんとしてる感じが描きたかったんだろうかなぁ、って感じが凄くする。 ここでも、読後に読者は、前作のヤクザの「青木」のように茫然と放り出される感覚を味あわされるのであった。 |