■過去商業原稿  
 
不器用な父たちの背中
――高村薫作品の職業と人間
  (初出:別冊宝島『高村薫の本』(2004年3月)宝島社)
  小説家高村薫の作品世界を、「記憶」「宗教」「職業」「大阪」「友愛」「嘱託」「女」という七つのキーワードで読み解く、というコーナーの一つとして書かれた。

 
 

いじらしいパブロフの犬
 高村薫はエッセイ集『半眼訥訥』収録「深遠な労働の姿」で、〈人物と仕事の風景は、切っても切れない関係にあるという単純な思いで、小説を書いてきた。〉と述べている。彼女は、職業や世代や学歴や出身地などといった社会的属性から切り離されたところに「本当の自分」がある、というような考え方はしていないようだ。地に足のついた思考である。
 彼女のこうした視座が端的に見えるのが短編集『地を這う虫』だろう。
 表題作「地を這う虫」の主人公の省三は、刑事を辞めてもなお、地どりの眼で自分の通勤路を丹念に観察したり、気付いたことはいちいち手帳に記さなければ気がすまない男だ。「父の来た道」の慎一郎ほかも、まるでパブロフの犬のように、刑事を辞めてもその長年の習慣と思考が抜けず、うまく適当に俗世間に馴染むことができず、対人関係にも難がある不器用な男たちである。
 それは時として、偏執的オタク的にも見え、また滑稽にも、そしていじらしく可愛くも見える。
 そこに通底しているのは、別に自ら望んだものでなかったり、自分でもそれが立派な仕事とは思っていなくても、長年の仕事によって作られてきた自分こそが差し替え不能な自分自身である、という人間像である。
 高村自身の職業経験はと言えば、インタビューで、外資系の商社にいた時代を〈九時に出社し五時に退社する〉〈可もなく不可もない〉OLだったと語っているが、『半眼訥訥』収録「折々の花」では、仕事一筋らしい単身赴任の上司が時々窓辺のシンビジウムの鉢に話し掛けていた記憶を印象深く書いている。そこに翻って彼女の、仕事一筋だけで自足し得ない言葉を紡いでしまう自分への戸惑いを読み取るのは意地悪か。
 『マークスの山』から登場する合田も、こうした地道で不器用な男の類型にある。仕事一筋の平巡査で、家では粗暴な男だった父に反発し、明るいオフィスで働く人間になりたいと思いながら、結局自分も警察官となった合田は、半ば自己嫌悪を抱きつつ、結局、自分はこうしかあれないと思いながら、地道な地どりと聞き込みの刑事稼業に明け暮れる。
 そんな合田と対比されるのが、政界官界上層の都合次第で合田たちの捜査の成果を軽々と葬るキャリア組警察幹部であるが、その背景にあるのは、ただ単純な官僚主義や権力の腐敗への批判だけでもない。
 『レディ・ジョーカー』での日之出ビール社内の対立などとにもある、職業によって人間が確立されてしまった大人は、どうしてもものの見方、考え方が、自分が属する業種、業界、更には部署によって規定されてしまう、という視座だ。高村はただそれを批判しているわけでもなく、良くも悪くも人はそういうものである、という現実として描く。

日本が見失った親父の背中
 しかし、思えば、日本の父親とは、皆そんな、妻子に自分自身の仕事の世界を語る言葉を持たず、仕事の世界に埋没する不器用な男達であった。
 高村のそんな「仕事一徹の不器用なオヤジたち」への深い視座を見ていると気になるのが、彼女自身にとっての父親像である。しかし、高村は、母親についてはともかく父親について言及した発言はほとんどない。
 そこで想像するに、結局、高村にとっても、自分の父親はよくわからない存在であり、彼女にとって、仕事一筋の男達を描こうとするということは、戦後の日本において、特に、高度経済成長期以降、何だかわからないものになってしまっていった父親の背中を探り出すという行為だったのかも知れない。
 実際、高村は母校ICUでの講演で、アイルランドについてであれ、警察の内部についてであれ、自分にはわからないからこそ、それについて考え、書いてきたと述べている。
 戦後五十年を経て、日本の産業構造は激変し、かつてのような地道な労働のあり方、額に汗して物を作ることより、それをいかに売るか、更には、株式や証券業など、ただ数字や情報を右から左へ動かして利益を得ることへと変わっていった。
 高村の作品世界には、そのことへの疑念が色濃く漂う。それが端的に現れているのが、例えば『レディ・ジョーカー』での、年老いた元工員、物井清三の感慨だ。
〈財を成した人々が回しているその金は、元はといえばどこから来たか。郷里の村で炭俵を運んでいた父母の手から、キューポラを回していたこの自分の手から、女工をしていた姉の手から、ビールを作っていた岡村清二の手から、生まれ出た金ではないのか。〉
 もっとも、現実には物井のような男は、生涯こんなことを考え表わす言葉を持たないがゆえにこそ、地道に黙って働いて一生を終えるものかも知れない。だが、物井の心情として描かれた高村の感慨、視点自体は、虚構ではない。それは翻って、生まれた時から豊かな日本しか知らず、3K労働を嫌い、楽に生きようとする現代の我々に鋭く自省を迫る。
 物井と対比される位置にあるのが、エリート経営者、日之出ビール社長の城山だろうか。城山は自ら〈人間に対する深い慈愛がなければ務まらない医師や弁護士は、自分にはその資格がないが、物を売って対価を得る資本主義経済の一端なら担えるだろう〉と思って企業人となった男だ。
 高村は城山を、ひたすら私的個性を押し殺して淡々と会社に滅私奉公する日本型サラリーマンの典型の頂点として描くが、決して城山を侮蔑的に見ているわけでもない。城山と合田の奇妙な一瞬の交感などにそれは現れる。城山は、合田が、自分の勧めた工場できたてのビールをうまそうに飲む場面で率直に喜ぶ。
 しかし、城山は、なまじ巨大企業の頂点に上り詰めてしまったゆえ、自らの手によってものを作り売る喜び、自分が作り売った物が人に喜ばれる喜び、という実体的な労働の手ごたえ、更に職業を通じての自己像さえ抽象化し、人間関係に縛られ、そんな城山がレディ・ジョーカーの事件を通じて初めて自分の職業人生を真摯に自省し、ただの企業の歯車でない一個人に立ち返ったとき破滅を迎える、というのは皮肉である。
 ところで高村は、冒頭に引いた「深遠な労働の姿」の最後には、しかし、自分の小説での労働の描写も、しょせん作家によって作られた風景ではないか、現実に日々働くことの中にある平坦さを本当に言葉で描写しえるのか、という懐疑を語っていた。この懐疑が、『晴子情歌』までの五年間に熟考していたことのひとつではないかとも思われる。
 『晴子情歌』では、農家の土着の共同体を解体し、のっぺりした近代労働の空間を作り出した一大資本家の福澤勝一郎(中上健次『枯木灘』の浜村龍造を彷彿させる)を、かつての日本の父権像の象徴として描く一方、もはや作家の視線のフィルターを外した、職業人というまでもない、本当に普通の、酒を呑み、女や博打に明け暮れる常民としての漁船員たちを描こうとしている。だが、物語の視点人物となっているのは、インテリでありながら漁船員となった彰之やその祖父康夫だ。
 これは高村が、結局、自分の描く職業と人間はインテリの視点を通じての職業と人間であり、また、自分には、日本の父親――働く男たちというのがやはりよくわからないから、もはや理屈をつけずわからないものとしてそのままに描いてゆく、と腹を決め、新たに踏み出そうとしている、ということなのかも知れない。

高村薫 (はてな)

 
 
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