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アクシズの戦艦グワダンに案内されたカミーユたちは、ミネバ・ザビの座する広間に息を飲む。ひたすら広い天井に巨大な玉座、居並ぶ膨大な数の衛兵たち……だが、それは豪華であればあるほど、むしろパロディじみた空疎さが拭えない。
全体主義政権の建築風景の異様さは、北朝鮮政権を描いた記録映画『金日成のパレード』で、日本でもよく知られるようになった。そこには、政権の威光を示すかのごとき、指導者の銅像や塔などの、とにかく巨大な建築物の数々が溢れている。かつて、芸術家を志したヒトラーは、ベルリン市の大改造を計画し、数万人収容の巨大な公会堂を設計させ、スターリン時代の旧ソ連も、労働宮という高さ400メートル級の巨大建築(頂上部は75メートルのレーニン像)を計画した事がある(いずれも戦争により実現しなかった)。
これらに共通する異様なまでの巨大さや豪華さへの志向は、一面微笑ましくもあるが、まっとうな歴史性から切り離されているゆえのものだ。わざわざ権威の象徴を作らずとも民衆に支持された伝統文化が自然に定着している国や、安定した民主的政権であれば、こんなものは必要とされない。
だが、一見して自由な民主的国家に住む僕らも、そんな全体主義政権の異様な建築を、遠い過去や時代錯誤な外国だけのものと笑えるだろうか?
日本で1995年に地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教は、教団施設内に発砲スチロール製の巨大なシヴァ神像を作っていた。毒ガス製造施設を隠すためのものだったとも言われるが、その感覚に対し、当時、富野由悠季監督は、『あれは何だったのか?―「オウム」解読マニュアル』(ダイヤモンド社)の中で、教義の内容以前に「美意識の欠如」を指摘している。
日本でもそんな内面なき見た目の豪華さ追求の志向が普及してしまった背景には、戦後高度経済成長期に土着的な風景が破壊され尽くされた後に来た80年代後半から90年代初頭のバブル期の空気もあったかも知れない。当時、日本各地では、周囲の風景とそぐわない、とにかく豪華で巨大なアミューズメント施設やホールの類が乱立したものだった。今も東京都墨田区に建つ某ホールなどは、男子小用トイレは壁面が丸ごと滝になっていて、座式便器は全面に百式のごとき金メッキが施されていた、まるで、アクシズ内にあってもおかしくないセンスだ。
アクシズの美術センスとは、ミもフタもなく言って、田舎のラブホテルのようなものなのである。そういえば、富野由悠季監督の小説版『Zガンダム』では、カミーユが、アクシズの応接室の調度品は、一見豪華なようでいて、実は通販カタログの部屋のような身にそぐわないものだとの印象を抱き、そんな部屋で客を圧倒させようとするハマーンが、実はテーブルマナーもろくに身につけておらず、お茶を飲むのに音を立てているという有り様が、さらりと描写されていた。
金や力だけですぐ作れるものでない、内実の伴った真の高貴さや品性を得るには、長い時間と、慎み深い人間性が必要なのである。
機動戦士Zガンダム
(はてな)
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