■過去商業原稿  
 
映画『ゴジラ』(1954年)監督・本多猪四郎
水爆が生んだ怪獣は、日本だけを襲う祟り神
  (初出:『TONE』第二号(2005年6月)ユニバーサルコンボ)

 
 

  怪獣ゴジラが最初に銀幕に登場したのは、まだ戦争の記憶も生々しかった1954年(昭和29年)、ビキニ水爆実験が行われ、第五福龍丸が被爆した年だという。
 僕らの記憶で最初に見たゴジラの姿は、カラー映画になってからの、人類の味方として悪役怪獣と戦うゴジラだった。けれど、怪獣図鑑にはゴジラは水爆実験によって生まれたと書かれ、最初のゴジラを説明する白黒の写真では、逃げまどう人々の姿も、破壊された東京の風景も、まるで戦争映画のように暗かった。
 水爆が生んだ怪獣ゴジラは、多くの戦没者を出した南の海から現れ、本土決戦を避けた帝都を襲う、それは空襲の再来のように、平和な戦後に生き延びた者たちを脅かす。主人公の一人である、平田昭彦演じる芹沢博士は、傷痍軍人を思わせる眼帯をしていた。どこか戦争で生き残ったことへの罪悪感を抱えた芹沢博士が、自らの造った化学兵器によってゴジラと相討ち心中することで、やっとゴジラの災厄は払われる。それは特攻のようだった。
 この最初のゴジラに戦争の匂いが漂うのも当然だった、『ハワイ・マレー沖海戦』を撮った特撮監督の円谷英二に、自分自身が特攻隊に行ってたかも知れない平田昭彦ほか、作り手自身も戦争経験者ばかりだった。当時の観客が銀幕の中に見たのは、恐らく、巨大な怪獣の恐怖に仮託された、つい十年前に見た空襲と原爆の惨禍の再現だろう。しかし、そんなPTSDを起こすようなものに、なぜ人々が集まったのか……それは同時に、死者とお互いとの共通体験を再確認する儀式だったからではないか?
 その後もゴジラやほかの怪獣たちは、高度経済成長期の驕りへの戒めのように、高層ビルの街を破壊した、しかし、やがて戦後の豊かさが世を覆い尽くし、戦争の記憶が消え、恐怖の対象だったはずの原子力の産業利用も普及する内に、ゴジラは、払ったはずの厄を内に取り込むかのように、戦後日本を襲う悪い怪獣と戦う「戦後日本の守り神」へと姿を変えていった――要は、お子様向けに怪獣プロレスを演じるヒーローに姿を変えたということだが。そして70年代も中頃、高度経済成長期が終わり、巨大なものがすたれると共に、怪獣たちも退場した。
 それから10年、高年齢化したファンの声に押される形で、1984年、ゴジラは再び渋い悪役として銀幕に復活した――しかし、作り手側自身も戦後世代になったゴジラには、真面目なテーマを言わんとしても、どこか空疎なお題目感が拭えなくなってしまった。「ゴジラは核兵器の恐怖の象徴」という言説は、ひょっとして、単に「ゴジラは単なるお子様向けじゃなく、大人の観賞に耐える真面目な映画だ」と言うことで、自分の地位向上をしたかった怪獣マニアたちの方便で、今やいい年した怪獣マニアが珍しくもなくなったら無用になったってことか?
 しかし、2001年の『ゴジラ モスラ キングギドラ 怪獣総攻撃』では、久々に忘れられていたゴジラの姿が甦った。ゴジラが放射能火炎を吐いた次の瞬間、破壊された都市にはきのこ雲が上がる、まるで歩く原爆だ。天本英世演じる老人が「ゴジラは戦没者たちの怨念の集合体だ」と語る。昭和29年の最初のゴジラの襲撃で家族を失った防衛軍の橘准将は、魂鎮めのようにゴジラを海に返す。だが、彼は芹沢博士のようにゴジラと一緒に死ぬことはない、なぜなら結局、橘も戦後生まれだからだ。
 平成16年(2004年)、50歳となったゴジラは、老いた悪役レスラーのように、最後の花を咲かせて一応の引退を遂げた。しかし、この微温な平穏が続くのなら、ゴジラはまたいつか東京を襲わねばならない。戦争の記憶を忘れてしまった僕らに、それを叩きつけてくれるために。

映画『ゴジラ』 (goo映画)

 
 
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