■B級保存版 | ||||||||
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●福岡市少年鑑別所 福岡市少年鑑別所という場所に来て、彼が最初に思ったのは、いささか間抜けな印象だが、建物やその内装の雰囲気が、なんだか古い小学校のようで、懐かしいような気がする、という思いだった。 これは決して彼個人の感慨でもなく普遍性のある認識なのかも知れない。話はそれるが、花輪和一原作の映画『刑務所の中』で描かれる刑務所生活は、いい歳をした大人が、規則正しい集団生活を送らされ、揃って給食を食べたり、体育の授業のように運動をしたりと、まるで小学生の学校生活のようだ。あの中に入れられた人々はある種の奇妙な懐かしさを感じているのではないだろうかという雰囲気を濃厚に感じる。 さて、彼は少年鑑別所に来ると、最初にまず、入所に当たって所長の挨拶を受けたわけだが、この福岡市少年鑑別所の所長という、おそらく50歳ぐらいの男は、こともあろうに、先日彼が殴りこみに行った大日本愛国党の集会に、聴衆の一人として来ていたという。 所長は嬉々とした表情で「あそこに俺もいたんだよ、いやあ、あそこで爆竹投げてた奴がここに来るとわねえ」とか、最初、彼の行動を、爆竹花火を投げたのではなく拳銃で撃ったのかと勘違いした、などと話かけるのだから、彼としてはたまったものではない。 ただし、公正を期すため述べておけば、別にその後、彼はとくに所内でしつこく思想矯正を受けさせられただの、職員の陰湿なイジメに遭っただのということはなかった。 が、公的な矯正機関の所長が、思想的に中立とは言い難い団体(言っておくが、これが共産党であっても同じ事だ)に堂々と参加してた、というのはどうかと思われる。 所長が言うには、少年鑑別所というのは、刑罰としての収監を科す場所ではなく、そうするかを判定する段階で、鑑別所に最長3週間収容してみて、その間に生活態度などを見て、さらに家庭裁判所での審判の結果、少年院送致(実刑判決である)にするか、保護観察処分にするかを決めるという。要するに未決拘留のようなものであるようだ。 そんなわけで、彼はここに来て初めて、今年は夏休みの半分は拘禁生活で終わると理解した。なんと鈍い奴だろうか。 入所の手続きが済むと、彼はそのとき所持していた衣服(下着含)と持ち物を提出させられた。何しろライターも花火もハンマーも没収されたので、持ち物なんて、腕時計と自転車の鍵と小額の現金が入った財布ぐらいのもので、大してなかった。 ただ、少々厄介だったのは、眼鏡を取り上げられたことだ。理由は、レンズを割って凶器にする(それで自殺などをはかる)奴がたまにいるからだそうである。当時の彼は、かろうじて裸眼でも目を近づければ本は読める視力だったが、不便なのは事実だ。しかし、規則なのだから従うしかなかった。 提出した衣類と持ち物はでかい箱にしまわれた。ちなみに彼が着ていたシャツは、集会場で右翼団員数十名につかみかかられたときに強い力で引っ張られ、派手に破れていた。 代わりに支給された制服は、はなはだ奇妙なものだった。まず、どっちが前だか後ろだかわかりにくいTシャツとぱんつ(色は白のはずだが、純白ではなく肌色が褪せたような感じだったような気がする)、その上に、上半身は半袖のワイシャツ、下半身はグレーの半ズボンである、布地は、サラリーマンが着る普通の背広用のもののようだった。 半ズボンなのは夏場だからであろう。ベルトがついているが、前の止め具部分以外はズボンと一体化しており外すことはできないつくりだったような気がする。要するに、普通のベルトだとそれで首を吊る者がいるので、それを避けるためだろう。さらに、これもサラリーマン用のような薄地の黒の靴下と、小学生の運動靴のような薄地の布靴が渡された。 着替えが済むと、彼は保健室で検査を受けさせられた。とりあえずぱんつを脱いでけつを出せと言われ、出すといきなりけつの穴にガラス棒を突っ込まれるのである。強引な検便で変な病気持ちでないかを調べられるわけだ。 さらに「お前は童貞か?」と聞かれる。何の変哲もない1980年代当時の田舎の高校生である、童貞のほうが普通だろう、多分。自分としては当然、そうだが、と答えるが、ここに来る者では18歳未満の青少年であっても必ずしも、当然、ではないようだ。この質問も、性病の可能性がないかという検査の一環だったのか、それともただの興味本位の冷やかしだったのか、どっちかは不明。 当面彼は独居房(一人部屋)に入ることになった。ひょっとすると収容期間中ずっと一人部屋かも知れないが、後日、雑居房(三人部屋)に移るかも知れないとのことである。 どうでも良いことだが、彼は当時、母親と一緒に暮らすようになって7年になっていたが、母親と3週間も離れて過ごすのは、これが初めてだったはずである。 ●独居房(1) 彼が入った部屋は、独居房(一人部屋)が並ぶ棟の、中央廊下側に近い位置だったはずだ。つまり、彼の部屋から棟の奥へと他の部屋が並んでいた。 隣室はやたらにうるさかった。彼が入ってから数日、隣人は、毎日夜になると、涙まじりの大声で「おがあぢぁぁぁああん、わるがっだよぉぉおおお、出してよぉおおお」という叫びながら泣きじゃくるのである。だが、そのうちその声もしなくなった。この隣人も観念したのか、それともつまみ出されてどっかに行ったのかは不明だ。 一人部屋の室内は、三畳程度の細長い間取りだった。部屋の奥には、頭の位置から腰の高さの位置ぐらいまである割と大きめの窓があるが、当然、鉄格子がついている。窓のすぐ外は、鑑別所の敷地内の運動場で、その先には、外界と敷地を遮断する高い壁が見えた。 扉にも外(廊下)から看守が中をうかがうための窓がある。当然、扉は勝手に開けられない。 扉の横には、食事を受け取るための小さな窓があった。朝夕二回、ここから食事が受け渡される。朝はボトル一本分の麦茶が支給される、ただし、季節は夏だが冷えてもいないし室内に冷蔵庫もなく、はっきり言ってまずく、おかげで大して飲まなかった。飲み残しは、毎日捨てることになっていた。 朝の起床時刻は6時頃だったはずである。朝はまず、スピーカーから起床時刻を告げる音楽が掛かって、それから看守が一部屋一部屋を覗きに来るので、それまでに扉に向かって正座して待ち、看守が来たら大きな声で挨拶しなければならない。 室内には、書き物用の小型の文机と夜具、座布団などがあったが、その定位置は決まっていて、夜具をきれいにたたんでいなかったり、定位置からずれていると怒られる。 部屋の奥には水洗トイレが置かれていた。本来和式の便器の外側に板を打ち付けて腰掛け便器として使用できるようにしたものである。使用時には高さ80センチほどのついたての板を立てることになっていた。 この板は、もし大小便時に看守が廊下を通りすがった場合、裸の下半身をさらすのはさすがに忍びない、という最低限度のプライバシーの保護のためのもので、使用時以外は壁に立てかけておくことが義務づけられていた。 このトイレには備え付けのちり紙が置かれていた。ティッシュではない、昔風の「ちり紙」である、軟らかいが紙質は荒い。これは消耗品であるから、なくなってきたら看守に伝える。というか、看守の側も消耗品が減ってないかと声を掛けて回るのだが「ズリ紙ぃ、ズリ紙はいらんかねえ」と、いやらしい笑みを浮かべて廊下を歩くのは気分よくなかった。 もっとも、実際、確か彼は、収監中でも何度かオナニーはした。 夜具は毛布が二枚きりである。季節は真夏だが、当然のように冷房などないから、吸湿性と通気性のよいタオルケットにでもして欲しかったがこれしかない。寝ていると汗が出てきてかなわない。が、冬はどうなのだろうか? さすがに毛布のほかに布団があるだろうとは思われたが。 独居房の奥には小さな洗面台があった。白い陶磁器製ではなく、四角く灰色のコンクリ地むきだしの昔風なやつである。 食後は歯磨きが日課となっており、コップ(茶を飲むのにも使う。確かプラスチック製だったはずだ)のほか、歯ブラシと歯磨き粉が置かれている。 歯磨き粉はチューブ入りの練り歯磨き粉ではない、本当に粉末の「歯磨き粉」である。1980年代当時では、スーパーや薬局では到底お目にかかったことのない代物である。一体どこに売っていたのだろうか? 洗面台の横には鏡があった。独居房に入ったその日、鏡を見たら、眼の周りにまるでマンガのように丸いアザができていた。集会場で右翼の集団に襲い掛かられた乱闘騒ぎのときのものらしい。彼は「名誉の負傷だな。出所後は友達に自慢できるぞ」などと思ったのであるが、3週間の収容期間の間に、あっさりと治ってしまった。 |
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