■B級保存版  
 
真夏のお蔵出し編 葦原骸吉獄中体験回顧録(2)
  (執筆:2008年7月)
  (注1:20年も前の話なので、記憶が曖昧で不正確な部分があると思われます)
(注2:文中の公共機関の仕様は1988年当時の物で現在と異なる可能性があります)
(注3:客観性を期すつもりであえて三人称で書きました。以上、ご了承ください)

 
  博多警察署
 つまり、彼は、右翼団体の政治集会を粉砕した廉で現行犯逮捕になったわけである。罪状は、建造物不法侵入、威力業務妨害、軽犯罪法違反だそうである。
 しかも、当時の彼は、どちらかといえば、反体制反権力を気取っていたつもりだったくせに、右翼100人に袋叩きにされて半死半生になってもおかしくない状況を、よりによって、国家権力の公安刑事に助けられたわけである。
 博多警察署の一室で取調べが続く間も、窓の外には右翼団体の街宣車が大音量で走り回っていた(彼の爆竹花火など、福岡市内にいる右翼団体全部の勢いに比べれば鼻毛ほどの威力もない)。
 彼は当時、どちらかといえば、反体制反権力を気取っていたつもりだったが、学校内の校則などは破らず、喫煙だのバイクで暴走だのいわゆる非行とされる行動はとっていなかったし、そればかりか、不良の類は軽蔑していた。つまり自分は「良い子」で、思想的にはリベラルというつもりだったのだ(←つくづく、いけすかない野郎だ)。
 そのためもあって、彼は、刑事に対しては、随分と積極的に取り調べに応じた。この時、彼は、自分は正しい、悪いのはあいつら右翼団体の方だ、あいつらは市民社会秩序に反している、警察官は本来、正義と社会秩序の味方だから、自分の主張を認めるだろう、と思っていたのである(←虫の良い発想だ)。
 彼は、取調べの刑事相手に、右翼団体は拳銃発砲事件などを起こし、暴力団と同様のケシカラン連中だと語り、さらに、小学生時代から戦争の話に関心を持ち、本多勝一の『中国の旅』などで第二次世界大戦中の日本軍の残虐行為について詳しく知り、日本が再びこういった間違った道に進まないようにしなければならないと思っていたので、日頃から、過去の日本の戦争を正当化する右翼には反発を抱いていた……とかナントカ、借り物の言葉をベラベラと、自慢げに喋った。
 また当時に、その日は一学期最後の実力模擬試験の日だったが、うるさくて試験どころでなく腹が立った、と強調した。根拠はないが、彼はなんとなく、思想性ばかりでなく、右翼の街宣車の騒音に対する突発的な苛立ちによる犯行という側面を強調しておけば、警察官からも悪く思われないのではないか、と考えたのだ。
 彼は、わざわざ取調官に対して、彼に「誰かに用があって来たのかい」と声を掛けた白髪で長髪の上品そうな老人のことを「こんな感じの人に声を掛けられました」と、再現イラストに描いて説明までした。
 ちなみに、このとき福岡市内に集まっていた大量の右翼団体は、日教組大会への抗議を目的としていたわけだが、彼は、日教組という団体に対する共感や同情心はまるでなかったし、取調べ中も、日教組を擁護する発言など、ひとつもしていない。そもそも、彼が、日教組とはどういう団体かを本質的に理解していたかさえ怪しい。
 当時の彼は、どちらかといえば、反体制反権力を気取っていたつもりだったというが、要はただ単に、一見していかにも市民社会秩序に反するヤクザのよーに見える右翼団体にケンカを売って正義ヅラがしたかっただけである(多分)。
 取調べの警察官は、窓の外の右翼街宣車の騒音に顔をしかめ、善意の勘違いもあってか、それともそういうポーズだったのかは不明だが、彼に一部同意も示しつつ、調書を書き進め、最後にできあがった調書を確認のため彼に見せた。調書は彼の一人称による文体となっており、末尾には「よろしくお願いします」という言葉が記されている。
 彼は、一体誰に対して「よろしくお願いします」なのか意味がわからなかったので「この『よろしくお願いします』ってどういうことなんですか?」と聞き、要するに、この調書はそのまま警察が保管するわけではなく、この後検察官が目を通すことになると教えられた。
 彼はその日、大日本愛国党の集会をぶち壊しにしたあと、そのまま会場のホテルから逃げ出し、帰って自宅で晩飯を食って、寝て、翌日も同じように学校に行って、一学期の終業式を迎えるつもりでいた。よくもまあ、無事に帰れるなどと思っていたものだ。しかし、彼は、じつは福岡県立場末高校に入学して以来、その日まで無遅刻無欠席だったのだ。
 が、今日は、博多警察署内の留置場に一泊することになった。しかも明日になっても帰れない。まったく予想外の展開だった。彼は「うげ、今日から『獄中編』スタートかよ? なんだか、『BANANA FISH』(当時の彼の愛読の漫画のひとつだった)のアッシュ・リンクスみてぇだなあ」などと思った(到底そんなガラではなく『あしたのジョー』の矢吹丈あたりのほうが近そうだが、残念ながら、彼はそういった70年代スポ恨マンガの現役直撃世代ではなかったのである)。
 留置場は博多警察署の地下にあり、窓はない。彼は独居房(一人部屋)に入れられたが、近くの雑居棒では、その日は暴走族が何人かまとめて入っていたらしく、たびたび怒鳴り声が聞こえてうるさかった。寝具は粗末だったが、彼はとにかく寝た。

検察庁
 翌日の朝食は、なぜか味噌汁とパンだったような気がする。
「ような気がする」が多いような気がするが、何しろ20年も前の話なので記憶が曖昧なのも仕方ないような気がするし、今後も同様の記述が出てくるような気がする。
 彼は警察署内で両手の指10本全部の指紋を取られ、正面および左右からの顔写真も撮られた後、ほかの留置中のいろいろな被疑者とともに、検察庁に移送された。
 警察署から検察庁への移送のバスは灰色で窓には鉄格子の入った奴である。当然、バスに乗る際には手錠を掛けられる。付き添いの刑事は彼にやや同情的で、手錠をかけるのを少々申し訳なさそうにしていた。
 検察庁に行く間も、車窓から見える福岡市内は、昨日と変わらず右翼の街宣車が大音量で走り回っていた。
 検察庁に着くと、検察官の取り調べまで、しばらく手錠がついたままで待たされることにある。何しろ人生初逮捕であるから、彼はいろいろと萎縮していたが、同時に暇だった。検察庁の拘置室の壁面は、不遜なラクガキが大量に施されていた。
 彼は検察官の呼び出しまで手持ち無沙汰だったので、靴下を脱いで、つま先と逆の裾の方を軽く水に浸し、壁をゴシゴシやってラクガキを消そうとした。とはいえ、洗剤もないのに壁をゴシゴシやったところで大してきれいになるわけもない。ただの自己満足だ。
 今にして思えば、警察官と検察庁の人間の前で良い子ぶりっ子のあざといパフォーマンスをやってただけといわれても仕方あるまい。だが、これは決してそれだけでもなかった、でもやっぱり、誉められる動機とはいえなかった。
 何か世間的に悪いことをした後、人から命じられなくても、ささやかながらでも、自発的に贖罪行為のようなことをしたがる人間の心理とは、いかなるものだろうか?
 それは、ひとつには、自分で自分を「俺はただの自己の快楽のため悪いことをして、そのままでいるような、自己中心的なげす野郎じゃない」と思いたいがための、要するに自己のプライドのための行為だ。
 贖罪行為とは、本来、被害者を意識することによって行なわれるはずである。だが、このとき彼は、「被害者」のことなど何一つ考えていなかった(←その後もだ)。ゆえに、このとき彼が、命じられたわけでもないのに一人で検察庁の拘置室の壁掃除を始めたのは、他人の目を気にしてのことでなかったとしても、結局どこまでも自己のためであって、贖罪などではない。
 そのうちに検察官に呼び出されると、彼は警察の取調室で喋ったのと同じ内容を検察官に繰り返し話した。検察官が彼のことを心情的にどう思ったかはわからない。
 検察庁では、責任能力があるかの精神鑑定とか、知能レベルをはかる簡単な筆記試験のようなものもあったような気がする。
 検察庁の人間と会話した狭い部屋には、壁に鏡がはまっていたわけだが、見るからに、それマジックミラーで隣に人がいるんだろ、というのがモロバレであった。で、会話中、自分から、ひょっとして自分はアタマがおかしいでしょうか、という話題を振ったら、検察庁の人、いや、隣から専門家にミラーごしに見てもらっている、と恐ろしくあっさりネタばらししてくれた。
 で、専門家が見たところ、結局、彼は責任能力はあると判定されたらしい。
 とりあえず、彼は、福岡市少年鑑別所に移送が決まった。
 
 
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