■B級保存版(第2期)  
 
第3回 日本一セコい、矢作俊彦『ららら科學の子』書評
 
(執筆:2007年11月07日)

 
   矢作俊彦『ららら科學の子』(文芸春秋)を読了した。この小説、刊行直後に福田和也が書いてた書評が実に興味深く、また周囲の友人の評判も高かったので、読む前から実に期待していた。
 実際、21世紀初頭の日本にあって、実に貴重な視点とそれを支える描写力とセンスの良さに彩られた、大変な力作、傑作であるとは思う。
 が、読んでて非常に反発や違和感を覚えた箇所も多い。一冊の本にこんだけ好印象と悪印象を同時に覚えるのは久しぶりである。
 もっとも、その悪印象というのも、単にわたしの視点が変に時代の一側面に毒されてて偏ってるだけかも知れないが、それでも一応、ひょっとしたら誰も同書に対してこういうツッコミを入れてないかも知れないので、ひとつ書き出しておこう。

「わかる奴にだけわかればいい」で良いのか?
 物語の主人公は、かつて1960年代末に学生運動に携り、半ば不可抗力で大学内に突入した警官を殺しかけ、そのまま、偶然知り合っていた中国共産党の工作員の持ちかけに乗って、逃亡するように文化大革命さ中の中国に渡り、そこで運悪く文革の方針変更による下放(事実上の国内流刑)に巻き込まれて中国南部の寒村に追いやられ、そこで30年を過ごした後、密入国によって日本に帰ってきた。

 30年ぶりに日本に帰ってきた主人公の描写は、冒頭から実に細かい。まず30年ぶりの日本の雑誌を読もうとして朝日ジャーナルを買い求めるが、既に廃刊していて無いので代わりに週刊朝日を買い、これを食い入るようにむさぼり読んでぼろぼろになっても大事に荷物の中にしまい込んだり、また中国から持ってきた荷物の中で、「糸か紐が必要になった時のため」、何の変哲もないぼろっちい漁網の切れっ端を後生大事に持ってたが、当たり前のように物の溢れた日本の風景を見る内、やがてそれを捨てる、という辺り、大量生産され大量流通される工業製品の存在が当たり前の価値観の中で生きている我々には、「ああ、とにかく物がなくて貴重な所にいる人はこうなんだよな」と再認識させられる。

 そんな主人公がどうにか学生時代の旧友志垣に連絡をつけると、志垣は主人公のことをまったく忘れておらず、ヤクザまがいの経歴の末、幾つかの企業の社長となっていた志垣は、現在仕事でハワイに行ってる最中ながら、主人公の身の回りの世話を部下に命じ、かくて中国の最貧の寒村から密入国した主人公は、いきなり渋谷の高級ホテルで何不自由ない暮らしにありつく。ま、少々ご都合主義的過ぎるが、こうでもしないと話が先に進まないし(笑)。

 主人公は、浦島太郎みたいな存在で、30年間日本を離れ、長い間電気もテレビもない辺境に居たため、冷戦体制の崩壊は知っていても、どこかまだ60年代末の全共闘運動全盛時代、映画館の銀幕ではヤクザや殺し屋の方がヒーローだった時代の気分を引きずっている。で、しきりと自分が日本を去った当時の新宿騒乱の熱気などを思い返したり、現在のアメリカがイラクや北朝鮮を「ならずもの国家」と呼んでいることに対し、ならず者というのはむしろヒーローのことじゃないのか、と呟いてみたりする。

 無論、そこは矢作だ、さすがに単純な60、70年代学生運動ノスタルジー美化オヤジとは違う。あからさまに今の日本はおかしいとか堕落したなんてことを書いてはいない。
 だが、それでも、これでは最近の「社会主義や共産主義は一切間違ってました。そんなものに身を投じた昔の学生は全部バカです」というのが、万有引力の法則の如き大前提という時代以降に育ち、何を見ても「サヨだ、けしからん!」と糾弾したがる、小林よしのりかぶれの無粋な若い平成ぷちナショナリストからは容赦なく突っ込まれてしまうんじゃないか、と感じた。
(何しろ彼らの中には、「中島みゆきは『世情』のような唄を歌ってるからアカだ」などと大真面目に言う者さえいる。まるで、戦前のプロレタリア文芸批評家が、本来政治思想と無縁な筈の芸術作品をいちいち「ブルジョワ的」と非難したのと同レベルだ)。
 ハッキリ言っておくが、わたしは基本的には、そうした昨今の(ネットで俗にコヴァとか呼ばれる)若い右翼よりは、矢作の方によほど人間的に共感できるし、ま、そんな奴らはじめからアウトオブ眼中、ってことなのかも知れないが、「わかる奴にだけわかればいい」という態度では、日本の文化自体先細りではないか。

 作中、主人公が渋谷駅前を歩くと金髪にピアスの若者の東大生を目撃し、その後、東大駒場の界隈で、かつてそこにあったヘルメットや赤旗やセクトの立て看板が見当たらない、という描写によって、かつてのように政治や思想に身を投じる真面目な若者はいなくなった、とでも言いたいようなのだが、若い人の中に政治的思想的なことに関心のある層自体は今も一定数いる。いや、バブル崩壊後の長期不況による日本の見通しの暗さゆえにそれが復活してきたとさえ言えるかも知れない。

 ただ、60年代の若者が、真摯な口調で「資本主義アメリカ帝国のベトナム侵略戦争はおかしいですよね」とか唱えていたのに対し、1990年代後半以降のそれは、真摯な口調で「大東亜戦争は侵略戦争ではなかった。中国や韓国や北朝鮮が日本に謝罪を求めるのはおかしいですよね」と唱えるようになってる、ってことだ。
 矢作は、冷戦体制崩壊による社会主義の凋落は理解していても、今の若者が、大人や権力の要請によってでなく自発的に(ここが重要!)保守化していることを理解してないのか、意図的に思考から排除しているのだろうか? しかし、これを視野に入れなければ現代に拮抗できないとわたしは思っている、このへん、ちょっともはや矢作とも『ららら科學の子』自体の書評ともズレるが、重要な点だと思うんで、ちゃんと書いておきたい。

「足元の歴史」を喪失させたものは何か?
 まず、60年代末までは、日本では「大学生」というもの自体が、まだかろうじて社会的に少数者のエリート予備軍であることが前提であり、だからこそそれゆえの「我々が未来を担っている」という理想主義(科学の子!)というものがあったし、人口比率では中卒高卒で人生終わる奴の方が多く、貧しい農村も残ってた。そんな中、「世の中にはまだ貧しい人もいるのに、俺は親の金で大学に通ってて、これでいいのか」という思いから、例えば成田空港建設反対の三里塚闘争のように、農民に肩入れしたり、同じように文明国アメリカよりアジアのベトナムに同情共感する人間が多かった、という面があったと思う。

 もっとも、これを、しょせん坊ちゃん中産階級の子供らが、貧乏人の味方になったつもりで親や教師や大人への反抗を正当化しただけの、欺瞞的なお遊びと突っ込むこともできる。それでも彼らには、少なくとも「三里塚の農民」とか「ベトナムの民」とか、自分でない他の弱者(といっても、その弱者もまた生臭いエゴイズムや残酷さを持ってたわけだが)のために戦うという利他的、自己犠牲的視点が、タテマエとしてはあったとも言える。

 それに対し、現代の若いナチュラルナショナリストは、もはや世の中から差別も貧困も一掃されて世の中が均一にならされ、皆が大学に行くのが当たり前という価値観で育ち、健全すぎるほどに立場の葛藤がなく、「自分は良い子、正しい子」ということをまったく自己懐疑しないことの延長に「自分の国である日本も良い国、正しい国」という感覚があるように思える。で、真っ直ぐな眼で大真面目に「東亜戦争は侵略戦争ではなかった。中国や韓国や北朝鮮が日本に謝罪を求めるのはおかしいですよね」とか言うわけである。
 要するに自己懐疑、自己否定なき自己愛の延長の自国愛というわけだが、そんな彼らは、主張は一見復古的だが、個々人としてはめっきり温厚で暴力的なものを否定してたりする。

 現代の、一見復古的右翼的な主張をしている若い人々というのは、むしろ足元から実感を持ってわかる歴史がないからこそ、一足飛びに、物語化された「日本が偉大だった時代」に飛びついて、これを不安な自分自身のアイデンティティの拠り所にしようとしてるのだろう。
(先に述べたように「中島みゆきはアカだ」なんてトンデモ発言を大真面目にやる奴が出てくるのもそのためである。中島みゆきこそ、左翼的近代と反する日本的土着的な情念丸出しのはずなのに、足元の歴史への想像力、文化の背景が「新ゴー宣」と「サクラ大戦」ぐらいしかない世代には、そんなことも実感を持って分からないのだ。
 が、そういう世代をはじめからバカだと見捨てて新世代への啓蒙をさぼっていれば、うっかりするといずれそっちが世の主流になってしまいそうなのが今の時代である。笑い話じゃねえぞ!)


 で、従来あった、誰もが共通体験として持っていた「足元から実感を持ってわかる歴史」というのが、まさに『ららら科學の子』で描写される、主人公の家が家業で酒屋をやってた風景とか、隣近所のおじさんおばさんがやってる写真屋やお好み焼き屋のある商店街や、左翼学生だろうがヤクザだろうが誰もが注目したヒーロー加山雄三や長嶋茂雄だったりするわけだが、それらの語り方が、いまひとつ「お前ら若い奴にはわかんねえだろうけどさ」というノスタルジーの域を出ていないのが物足りないところなのである。

 それら「足元から実感を持ってわかる共通言語の歴史」を喪失せしめたものは何だったかといえば、80年代に一気に広まった高度情報消費社会の実現、農民も炭鉱夫もなくみんながみんな企業の社員になり、つまりモノを売る商売人になり、あらゆる分衆化したニーズに応える種類の商品が溢れ、何でも手に入るようになった世の中――ということで、矢作もそう思ってると思うのだが、イマイチそこへの切り込みが浅いのである。
(確かに、主人公が初めてコンビニに入り商品の種類の豊富さに圧倒される場面や、旧友の志垣から、自分の両親が既に亡くなり、酒屋をやってた実家が地上げによってなくなってる事実を教えられ、志垣がバブル時代の説明として土地なんてものに本来の額面以上の値段をつけてつり上げて売ってた時代がいかにおかしいかと語る場面などもあるんだけどね)

「自分とその身内」しかない世界観
 確かに、冷戦体制の崩壊後、「社会主義や共産主義は一切誤りでした」というのは世の中の常識になってしまっているから、『ららら科學の子』でも、一応それを踏まえた世界観認識になっており、文化大革命は実質ただの大規模な粛清人事と末端での突き上げが混じったものだったとか、また、主人公にとってはひたすら、アメリカが悪者ベトナム人民が正義だった筈のベトナム戦争で、ベトコンの犠牲になった側の立場も語られる(志垣に命じられ帰国後の主人公の身の回りの世話をしているベトナム生まれの青年、傑は、ベトコンに両親を殺され、米兵に育てられたという)。
 だが、よぉーく読むと、実は巧妙に、そうした国際政治の大枠でのソ連中国の共産主義は否定されてても、私的個人的な学生運動経験への自省は、聖域のように手付かずのままなのである。

 読んでてまず違和感を覚えたのは、はからずも殺人未遂で国外逃亡していた主人公が、帰国後、自分の両親がそのせいで度々警察の聴取を受けたり、近所から白い目で見られたことを知って深く胸を痛めるのだが、主人公が殺しかけた警官に対しては、「警察なんて権力の犬、ぶっ殺しても一切胸が痛むことはない」とでもいうのか、まったく「あの警官にも妻子があったろうに……」というような罪の意識を感じてないことである。
 一方で、主人公が中国で味あわされた文化大革命と中国共産党の暴力性、また帰国の際に接した蛇頭マフィアの残虐さは痛烈に描写されているのに、だ。特に、文革の紅衛兵を評して、「彼らの怒りは外にばかり向いていて、内に向けられることも無かった」と、さりげなく皮肉なことを書いているのに、はからずも、まさにそれと同じ事が主人公自身にも当てはまってしまっている。
 わたしが数年前、少年院の教官をしている人から聞いた話では、最近のチーマー系不良というのは、暴行傷害やらの罪で拘束されると案外あっさり反省するのだが、そこで口をついて出る言葉というのが、「お父さんやお母さんに迷惑をかけて済まない」というもので、なぜかまるで被害者のことは視野に入ってないのだという。要するに、自分に属する人間関係は大事でも、その外に対する想像力がないのである。
 これではまるで、皮肉にもこの主人公は現代の若者と変わらんな、と思ってしまった。
(もっとも、そう思いながら読み進めていたら、終わり近くの方で、その警官を殺しかけた時の詳しい回想が出てきて、女子学生が乱暴な警官たちにひん剥かれかける光景を見てカッとなり、怒りに我を忘れてのことだった、という描写がされていたので、まあ、とりあえず納得は出来たけれど……)

 断っておくが、わたしは別に60年代全共闘学生運動を冷戦体制崩壊後の現在の視点から全否定したいわけじゃない。

 これが村上龍『'69 sixtynine』だと、別に欺瞞的には感じない。同作では、村上龍自身をモデルとする主人公は、はじめから当時のアメリカや権力に対する自分の無力を充分わかった上で、しかし自分がそれが楽しいから、カッコいいと思うから運動に身を投じ、その後警察に連行され、取調室で、自分を本気で命をかけて戦ってたアルジェのゲリラやベトコンと比べて無力感や屈辱感や申し訳なさを感じたりするが、結局、世の中楽しんで生きた奴が勝ちだ、と居直ってみせる。
 『'69 sixtynine』でも教師や警官は醜く描かれていたが、別にそこには、被害者意識に基づく正義感などなく、自分がそれを人間として醜いと思っているということが正直に語られている。こういうのは思想の左右に関わらず、欺瞞的な嫌な感じはしない。
 矢作と村上龍の視点の違いは、まず、矢作は横浜育ちの都会っ子で、多分センスの良いインテリの友人や学生運動やってた友人も多かったのに対し、村上龍は九州の外れの米軍基地の町佐世保生まれで、辺境で孤立してた、ということと、村上龍は矢作より二歳年下で全共闘の全盛期には既に乗り遅れていから、少々醒めた視線を持ちながら「でも敢えて運動に身を投じる」という感覚だった、ということだろう。

 つまり、どっか矢作の方が恵まれてた、ということで、恐らく矢作は、周囲に、自分に好意的な価値観の種類の人間が多かったんだろうなあ、と感じる。

『ラブひな』か『シスタープリンセス』ばりの女性像
 『ららら科學の子』を読んでて、特にそれが現れてるように思えるのが、主人公を取り巻く女性キャラクターの描かれ方だ。

 まず、帰国した主人公が深夜というか早朝の吉野家に行くと(ここで、主人公が吉野家の幟と店内の醤油の匂いに強烈な印象を受けるという描写は秀逸である)、たまたまそこでビールを飲んでた女子高生が主人公に声をかけてきて、ちょっとしたやり取りの後、いつの間にやら主人公の所持する携帯電話に自分の連絡先を登録して、以後、この女子高生との奇妙なデートが描かれたりする。
 どうもそこの女子高生は、一見イマドキのコギャル風でありつつ、実は家庭がゴタゴタしてて淋しくて、どっかズレた主人公にむしろ却って興味を抱いた、という、お決まりと言えばお決まりなパタンだ。だが、若い奴にボコられるダメ中年主人公をひたすら淡々とリアルに描いた福本伸行『最強伝説 黒沢』を読んだ後だっただけに、率直に言って『ららら科學の子』のこの展開には「ウソくせー」としか思えなかった。
 まあ、筆者矢作自身は、今でも、女子高生の方が声をかけくるくらいモテるのかも知れない。だが、主人公は長年の苦労で外見もすっかり老け込んでホームレスにしか見えないと描写されてるし、リアルに考えれば、わけのわからんオヤジが酒飲んでる女子高生に説教なんかすりゃ嫌がられて逃げられるか、下手すりゃカレシでも呼び出してオヤジ狩りに遭うのがオチだろう、というのは、無粋なツッコミだろうか?

 別にこの女子高生だけならまだ許せる。ところが、更に中盤、志垣の部下で主人公の身の回りの世話をしている傑のガールフレンドの礼子という女子大生が出てくるのだが、これが、たまたま大学の教官の影響で60年代カウンターカルチャーに理解があり、ごく自然に、ゲバラがどうのウッドストックがどうの、とか言って、主人公の世代的価値観を(決して共感しているわけではないが)ツーカーで理解してたりする。これは、偶然にしては少々できすぎてるのではないかと白々しく思えてしまった。
 実際今もそういう女子大生もいる。だが、逆に、大学の教官が説く60年代などまったくうるさい昔話としか思ってない女子大生だって多いだろう。
 ただでさえこの物語は、主人公が30年ぶりにコンタクトした旧友の志垣が、昔とまったく変わらず主人公に篤い友情を示し、しかも主人公に惜しみなく生活の場と金を提供するというご都合主義をやっておいて(まるでドラえもんだ)、更に主人公に好意的同意的価値観の人間ばかりが出てくるのは少々無理がある。

 その極めつけが主人公の妹である。主人公は11歳年下の妹とは30年間生き別れで、最後に別れた時、主人公が妹にケストナーの『点子ちゃんとアントン』を買って与え、妹はこっそり兄の荷物に『猫のゆりかご』という奇妙な書物を紛れ込ませていた、というエピソードは、結構いいとは思ったんだけど。
 作中、30年前の回想シーンで、妹は幼なかったこともあり、とにかく主人公のことを慕ってたという描写が繰り返され、帰国後の主人公もひたすら妹との再会を願ってて、自分がかつて住んでた近所の写真館が取り壊されかけているのを見て、写真館のショーウィンドゥの中にあった、昔撮ってもらった妹の写真を取って懐に収めるという場面まである。
 だがこの、回想の中での妹の主人公への盲従的な愛情や、主人公の妹へのノスタルジーと入り混じった恋着ぶりは、主人公がうやむやに別離したまま中国に残してきた妻への感情の酷薄さとは見事な対称をなしてて、なんだかもはや、一方的に自分を慕って「お兄ちゃん」と言う幼女を求めて「妹萌え〜」とか言ってるオタクの需要に応えたエロゲーみたいで気持ち悪い。
 主人公は、そんな妹が果たして今ではどうなってるのだろうかと思いをめぐらせ、ある時、テレビに出ていた女性エッセイストが成長した妹だと知り、傑から、妹が書いたものなどを集めてもらう。すると、石坂啓か福島瑞穂のごとき人権女という雰囲気ぷんぷんの大人になった妹は、自分がこの道に進んだのは兄の影響で、兄が失踪した当時は、子供心に、学生運動に興じてこっそり家を出てはこっそり戻ってくる兄を、何か人に知られず正義のために戦うヒーローだと思っていた、などと発言している。
 うげっ、何だそりゃ? だいたい、そんな兄貴がいれば、自分には優しい兄でも、うちの兄はなんだかよくわからないとか不安に思うのが普通の子供の感覚じゃないのか、それに兄への慕情が30年後までまったく持続してるというのも、少々お話にしてはきれい事過ぎる。
(後からふと思ったが、現代の視点で見れば到底「気持ち悪い」としか言いようの無い、回想中の主人公と妹の恋着ぶりというのは、つまり、かつては「イイお話」「夢のあるお話」として通用した『シベールの日曜日』や『時をかける少女』が、現代になって見るとまるで観賞に耐え得ない白々しい代物と目に映ってしまう感覚と同じことなのかも知れない。そう思えば、これはうっかり、「ロリコン」とか「ストーカー」なんて言葉と概念が普及してしまった現代の方が無粋なのか?
――とはいえ、例えば宮崎駿なんぞは、そんな時代外れな自分のロリコン趣味を一般人にも受け入れられるようにすべく、毎回最大限の工夫は凝らしている。矢作もこんな所で手を抜いてはいけないというものだろう)


 こういう主人公に都合の良い女性ばかりが出てくる背景には、うがった見方をすると、「癒されたい」という卑しさが透けて見える気がする。
 それこそ、ダンディズムとは一番遠いもんなんじゃないのか?

 とはいえ、別に主人公に突っ込みが入ってないわけでもない。読み進めながら上記のような嫌悪感を明らかに覚えたのが、まあ全体の三分の二、280ページあたりだったのだが、まさにそれ以降から、少しづつ主人公も自省を迫られてくる。
 主人公は傑が礼子と共に夜の六本木に出かけ、二人が仲良くしているのを見てふと自分も女が欲しいと思ったりする、傑はそれを察してか娼婦もやる台湾人のホステスを呼ぶが、礼子は機嫌を損ねて帰ってしまう。その後、台湾人の娼婦は主人公について来るが、主人公は肝心のところで気分が萎えてしまい、ちんちんも起たず気まずくなって自分から女を放り出して飛び出してしまう。深夜の公園をさ迷う主人公は子供の二人連れを見かけ、「こんな夜に時間に何してるんだ?」と声を掛けるが、逆に池に突き転ばされてずぶ濡れになってしまう、オヤジ狩りにこそ遭わなかったものの、この辺のくだりはひたすら惨めだ。
 60年代文化に共感しているわけではないが理解のあるインテリ女子大生の礼子が、一方で潔癖症らしく、酒煙草もがんがんやれば女も欲しがる昔の男である主人公のそういう面には嫌悪感を示す辺りはもっともらしい。妻との生活を思い出しても相互に愛情らしいものがあったとも思えない主人公が、無責任にふと女が欲しいと思ったものの、起つものも起たずに改めて歳(老い)を痛感する場面など痛烈である。

しかし、あのバカは荒野を目指す
 主人公がハワイにいる志垣に電話をかけると、志垣は度々、主人公に対し、お前もハワイに来いよと誘う。本当だったら30年前主人公と一緒に中国に渡っていた筈の志垣は、主人公の中国での30年間をひたすら哀れに思っているようだ。
 しかし、主人公は、明言こそしないものの、しかし自分の中国での30年間をただまったく無意義で不幸な日々だったとは思いたくないように描かれている。

 資本主義社会のめまぐるしい変化にどうにかうまく乗ってきた志垣や傑と対比されるのが、主人公の中国生活回想の中に出てくる義父、主人公が中国で結婚していた女の父親である。
 終戦直後日本の大学に通っていながら中国に革命が起こるや勇んで帰国した義父は、その後共産党の内紛により、実の息子によって、主人公と同じ田舎村に下放されたが、決して運命を恨まず、達観して淡々と日常をこなし、時折、政府や人民のありようについて機知に飛んだ言葉を口にする。
 この義父は、主人公が下放先の村に着いた日、日本人だからという理由で村人に睨まれて以来、主人公に好意的態度を示して擁護し続ける。彼はどこか、東洋的インテリのひとつの型である老荘の隠者のような雰囲気もあるが、別に世をすねてニヒリズムに陥っているわけでもなく、身の丈を超えた虫の良い期待はしない、という堅実な考えの持ち主のように描かれている。

 主人公の中国での生活の回想では、何もない村とそこでのゆるやかな変化がリアルに描写される。村は外界から隔絶し、視界には山々しか写らず、鉄道やバスさえどこを走っているのか分からず、村内のみが世界の全てのようにさえ思え、村の外縁を流れるほんの小さな川が、それと外を繋ぐ橋もないため、本当に世界の境界線のような存在に思える――まるで深沢七郎の『楢山節考』のような風景だ――いや、かつては、どこの国のどこの地方も、それがリアルな身の丈で実感できる空間の枠だったのだ。
 主人公は義父と共に畑を開墾し、何もない村で、しかし本来インテリの家の子として生まれた義父の娘は、主人公の持っていた書物と日本の情報に強い興味を示して主人公から日本語を身につける、彼女にとって主人公はマレビトであり、そこでは彼は外界の象徴だった。義父の薦めにより二人は結婚するが、それまで一緒に暮らしてたこともあり、そこには何ら特にロマンスらしきものはないかのように描かれている。
 やがて、何もなかった村には電気が通り、交通網が行き届き、主人公は、裏の山で見つけた大量の松茸を外から来た商人を通じて日本に売ることに成功し、それまでの畑仕事からすれば法外な収入を得る。すると、主人公の妻は金に目がくらんだのか、主人公の反対を押し切って出稼ぎのために広州に行き、それきり帰ってこなくなる。

 主人公の中国の30年は、幾分ずらして見れば、日本の戦前の農村の普通の風景からバブルへの変化を恐ろしく分かりやすく圧縮したようにも見える。
 そこでは別に、単純に、そんな中国の僻地の村での暮らしを、我々が失ってしまった本来あるべき素朴な暮らしだ、などと美化しているわけではない。だが、暗に、本来人間は、正当な額面どおりの労働の対価だけを求めるべきであって、その身の丈を超えた、自分でも把握しきれないような欲を持つことからおかしくなる(しかし困ったことに、そういう欲を持ってしまうのが人間というものでもある)、という、まるで『千と千尋の神隠し』で、満腹できない妖怪カオナシに託されていたテーマと同じものが感じ取れる。

 主人公は30年間中国で過ごす内、自分の命運を不遇と思うことも紛れたのか、結局目の前の環境に順応し、そして小金を手にしてもすぐには日本帰国を考えなかった。
 アゴタ・クリストフの『悪童日記』でも、最愛の母によって、粗暴な田舎者の祖母の許に預けられた主人公兄弟は、たくましく成長した末、最後には迎えに来た母を追い返すのと似ている。

 主人公は、消費文化のきらびやかな日本に帰り、志垣や妹など自分に好意的な人間がいて、そのことの良さを認めてもなお、結局、中国で過ごした30年、放り出してしまった妻と共に置いてきたのが「自分」なのだと痛感したようだ。
 志垣はそんな主人公を理解できない。主人公も、到底それが現在の日本人一般に誇れるものでないことは認めている。が、自分が自分の手で実感を持って経験した来たことには何人にも否定されたくない自負がある、とでもいうべきことなのだろう。
 これを負け惜しみというのはたやすい。だが、不遇な人生であっても、既存のシステムに拠らず自力で生きてきて年齢を経た人間の決意としてはリアルにも感じる。というか、これこそ今の日本が失いつつある誇りあるへそ曲がり、ダンディズムの一つの形だろう。 (無論これは、中国の素朴な暮らしこそが良いとか、日本のバブル資本主義発達の方こそ全部間違ってたとか、そーいうことが言いたいのではないことは言うまでない!)

 主人公は結局、志垣とは何度も電話で話していながら直接会うことはせず、あんなに再会を願っていた妹とも、最後に一度ほんの軽く電話で喋ったきり直接再会はせず、しかしいつか会いに来ると約束して電話を切り、中国へ戻る決意を固める。
 今度はこっそりと逃げるのではなく堂々と、30年過ごした「自分の世界」の中国に行き、うやむやのまま放り出してしまった妻ともちゃんと話をして、できればその妻を取り返す、と主人公は選択するわけだ。
 ラストのこの主人公のこの決意は悪くない。というか、最後まで読んでやっと、前半の不満が帳消しになった。

 読み終わって気付いたが、これ、何かに似ている、そうだ、フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(ご存知『ブレードランナー』の原作)や『去年を待ちながら』だ。
 ハイテクでカッコいいサイバー・ニューエイジSFの鼻祖ってことになってるディックは、実人生では、金遣いの荒い気まぐれな妻に悩まされながら、一方ずっと歳下のヒッピー娘と付き合って振り回されたり、てんでダメ中年であった。
 実はそんなディックの私小説的実像が投影されてるのが両作品で、どちらも、妻と上手くいってないダメ中年が、アンドロイドと戦ったりの非日常的冒険を演じたり、少女に弄ばれたりしながら、結局、ショボい日常に立ち返る話だった。

 本作、『ららら科學の子』が現代の日本に、そして、ちゃんと大人になれてない今の日本の30代以上の男に意義ある書物なのは間違いあるまいと思う。
 が、惜しむらくは、現状は、どうもその真の意義に気付いてもらえそうにないな、ということも否めないのは非常に残念である。
 
 
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