■B級保存版(第2期)  
 
第2回 盆地人の試行錯誤
 
(執筆:2002年12月20日)

 
  果たして見てる人間がいるのか不明なこのサイト。半年以上放置でいきなり再開である。相変わらず行き当たりばったりだが、まあ、どうせ半分は自分用の覚え書きメモみたいなもんだからいいか……

さて、先日たまたま図書館で、「日本の映像20世紀 長野県」(NHK製作)というのを借りてきて観た。シリーズで各都道府県が揃ってるわけで、生まれ故郷である諏訪の産業発展史には前から少し興味があったが、パッケージの「長野県は、戦前もっとも多く満州へ若者を送り出した」って言葉が引っかかったからである。

ビデオ中ではまず、明治期から長野県の主要産業は養蚕と製糸だった、というお決まりの説明が流れる。で、観てて少々気恥ずかしくなるまでに、明治から昭和の長野県が近代教育の普及に力を入れていたという話が出てくる。 いわく、農民が自分らで金を出し合って建てた学校があるだの、地主の家に子守り奉公に出されてた娘らを集めて子守りしながら学ぶ学校があっただの、全国から学生や若い教員が集まるような、自由で開放的な夏季講座が開かれてただの……

どうも「教育熱心=近代的で良いこと」という発想が実に優等生的民主主義的でナニやらむずがゆい。だいたい、戦後民主主義教育の下じゃ大きな声では語られてないが、本来、日本の農村では「学校」とはまずは異物であり、学制が布かれた当初は「学校なんぞに行くより野良仕事手伝え」なんてのがお百姓さんの率直な感情だったというではないか。
ビデオ中では、奉公に出された娘が字を覚えて親に手紙を書けるようになった、なんていってるが、その親の方は字が読めなくてむしろ困惑した、なんて話もあったんじゃないだろうか……これは昔の人間を馬鹿にして言ってるのではない、恐らく、わたしの母方の先祖(長野県の伊那地方が実家)も、明治の頃まで遡ればそんなもんだったろうし、昔の日本の農村じゃ、どこもそんなもんだったんじゃないかとも思う。

では、なぜ長野県はそこまで高度なリベラル教育県となったのだろう? ビデオ中、これと平行して語られるのが、特に大正時代以降、富国強兵殖産興業の国策で大規模な次々に製糸工場が作られるようになり、岡谷地方は日本随一の工業都市(昭和初期すでに諏訪湖畔は人工建築物ばかりで緑地がまったくない! というのも、湖と山の間の狭い平地しかない盆地だからなのだが)、多くの工業資産家がいたという話である。いわく、戦前の日本の最大の工業輸出品は絹糸であり、その三分の一は長野県で作られたのだとか。

で、その製糸業の裏面として語れるのがお決まりの女工哀史である。長野県内各地のほか岐阜や山梨といった近県から人買いに騙され……もとい、現金収入を求めて集団就職した娘たちは、夏も冬も一日18時間労働の立ち仕事を続け、病気でも休むことを許されず、日本資本主義の礎を築いたのであった、「プロジェクトX」のおばあちゃんである。
しかし、そもそも、農村の娘が、従来の家業の手伝いはなく、商品経済的な現金収入のために家を離れて集団で働く、というのは当時の農村社会ではかなり珍しいことだったはずだ。そこらへんが、長野県という土地の特殊性だったのではないか。

つまり、ビデオの中でそこまで語られていないが、わたしが話を連結して推論すると、明治から昭和初期の長野県にでは、製糸業の富と、旧来的な農村社会の「家業」とは異なる近代資本主義的な「雇用」の普及が、従来の日本的農村の価値観とは一線を画した近代的なリベラル教育の下地を作った、ということなのではないだろうか?

そう、土着的な農村社会の価値観がごく自然に支配的な田舎では、リベラリスムを求める余裕すらないものである。大東亜戦争を唱導したのは、青年将校だけでなく東條も石原も東国の貧乏農村出身で、戦争不拡大を唱えたリベラル派は大抵、近衛文麿から吉田茂まで、都会育ちの裕福な階層だった。フランスでもロシアでも、革命の時、無学な農民たちはただ食糧暴動を起こしただけで、新政府の構想をひねったのは富裕階級の暇人たちだった。

――ところが、そんな長野県では、リベラルで自主的な教育が進んだ結果、それが行き過ぎて、昭和初期には「赤化教師」の巣窟として治安維持法による大弾圧を受けることになったのだという(ここで画面に引用されたのは『信濃毎日新聞』の記事だった)。

で、これも明確にそうは語られていないが、どうやら当局の締め付けの反動で、今度は必要以上に国策に従い、無知な若人をぽんぽん満州に放り込むようになった……という構造らしい。長野県から満蒙開拓義勇青年団に参加したのが全国最多の6000人、うち1600人が生きて帰ることなく、満州やシベリアの土になったようである。
ビデオ中には、戦前、若人を煽って大陸に行かせた元教師が昔を悔やむインタビューも出てくる。なんだか高橋和巳の小説みたいな話だが、まあ、昨日はリベラル教育を唱えてたのに、特高警察や憲兵隊にやられて、村の世間体もあって泣く泣く国策推進教師に転向したのもいたんじゃないかとは思うが……

さて、わたしが長野県の諏訪に住んでいたのは7歳までで、わたしの親父は同地に工場を持つ日本有数のカメラメーカーの社員だった。戦後の諏訪は製糸業より精密機械工業で知られ、時計とカメラの産地である。ところがこれも戦争と関係があったりする。
要するに、戦争末期、東京とその近県の軍需工場が空襲で次々にやられ、工場が疎開してきた結果、それが戦後、民需に転向したのだという。 そんな「戦争末期に東京から疎開してきたもの」の最大のものが幻の松代大本営で、敗戦の結果使われることなく終わったこの巨大施設は、戦後の一時期、戦災孤児の収容施設になっていたのだそうだ。

長野県はなぜ内陸ながら工業地帯となったのだろうか。その理由の一つは、内陸にしては水利がよかったのと、上記のように東京から比較的近かったからだろうが、長野県は山と森ばかりで平地は少なく、水田を作るのは不向きな土地だ、そこで米以外の商品作物を作ったり、家内工業が発達したんじゃないかな、とわたしは思っている。
商品作物の栽培は、本来なら自給自足が基本のはずの農村に商業資本主義を呼び込む。日本の資本主義の立役者の一人、澁澤栄一の実家は染料の藍の栽培と販売で財を成した郷士(豪農)だったという。明治以降の全国的な近代化の過程では、早い段階で農村社会に商業資本主義の価値観が根付いたかがかなり明暗を分けたはずだ。

そうしてみると、長野県というのは、全国規模で見れば、比較的に近代日本の成長のおいしいところを取れた方だと言えるのではないだろうか。冷害に苦しみ娘を身売りせにゃならなかった東北諸県や、戦後一気に「裏日本」という不遇の地帯になってしまった日本海側諸県や、気候の厳しさと交通の未発達で長らく最貧県の地位にあった四国諸県のようなわかりやすい不幸がない。

と、以上↑はそれら各県をバカにして言っているのではない、農業以外の産業が中心となり、交通も発達した現在ではついつい忘れられがちだが、数十年前まで「米がどれだけ作れるか」「東京にどれだけ近いか」といったことが、いとも簡単に。地域の富や、その産物としての思想にまで影響を与えていたであろうことが想像されるからだ。 逆にいえば、だからついに長野県からは田中角栄は現れなかった、とも言えるのだろうし。

ビデオの最後を飾る映像が1998年の長野オリンピックだったのは、そこが一番気恥ずかしくてかなわなかったが、ペログリ知事(これもこれである意味では漢だと思うけれど)が映らなかっただけよしとしようか……

どうも岡谷〜諏訪界隈を長野県全体のように語ってしまって、お国自慢の引き倒しのようであるが、それにしてもこの100年、盆地人もまあ頑張ったものである、というのを結語にしておこう。
 
 
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