■B級保存版(第2期)  
 
第1回 外国人にお勧めしたい日本映画(戦争映画篇)
 

(執筆:2002年5月6日)


 
 

 先日、仕事でスペイン語学校のWEBサイトにちょっと関わることがあった。
単に、依頼元から来た原稿をhtml化するとゆう地味な作業だったが、その原稿中、スペイン語文化圏を理解するため、スペインやラテンアメリカに関する映画などを観る、とかゆう一文があった。
「スペインやラテンアメリカに関する映画」などと云われてわたしが思いつくのは、スペイン内戦の映画「大地と自由」だの、「ドン・キホーテ」の原作者であるスペイン人作家セルバンテスを主人公とする「ラ・マンチャの男」だの、ラテンアメリカ物なら「蜘蛛女のキス」だの、どーにも偏った作品しか思いつきようないのだが、ふと思った。
逆に、外国人に日本人を理解してもらうためにお勧めしたい日本映画、っていったらなんだろう? と。
 一般には、日本の伝統的土着的庶民を描いた日本映画と云えば、山田洋次の「寅さん」シリーズや、あるいは小津安次郎とかになってしまうんだろうが、単純にそれらを挙げるのはちょっと違う気がする。云ってみれば、既に観光地化した浅草を見せるようなもんじゃないかと。
で、しばし考えて、戦争映画、それも一庶民出身の一兵卒を描いた映画が良いんじゃないか? と思い至った。
 ――と、いうのは、まず、遺憾ながらいまだに世界的には、第二次世界大戦における日本というのは、悪のファシスト国家であった、というのがワールドスタンダート的理解だろうから、先の戦争にかかわった日本人にもいろんな立場があったということを知って欲しい、ってのがひとつ。
あと、日本人および日本文化にまつわる重要なテーマと云えば、やはり「共同体と個人」つまり、地縁だ血縁だ上司部下の関係といった集団の軋轢と個人との葛藤(実際、時代劇の傑作、人気作の多くも「忠臣蔵」でも「七人の侍」でも「木枯らし紋次郎」でも突き詰めればそれがテーマの重要な要素の一つだと云えると思う)であり、戦争映画ってのが、それが特に分かりやすく現れてるんじゃないか、と考えたからである。

 さて、ではどんな戦争映画が良いだろうか? 海軍物、それも「連合艦隊」なんてのはこの場合、不向きだろう、どうせなら、陸軍物、それも中国大陸が部隊の作品が良かろう。つまり「加害者としての日本」「被害者としての日本」双方の立場への視線が込められてる作品だ。
と、いうわけで、わたしが考え付いた「外国人に日本人を理解してもらうためにお勧めしたい日本映画 戦争映画篇」(長い…)は、まずは以下となる。

 1.「兵隊やくざ」(1965) 監督:増村保造  主演:勝新太郎
 2.「独立愚連隊西へ」(1960) 監督:岡本喜八 主演:佐藤允
 3.「肉弾」(1968) 監督:岡本喜八 主演:寺田農

 「兵隊やくざ」は、元ヤクザの日本帝国陸軍二等兵、大宮喜三郎(勝新太郎)と、有田上等兵(田村高廣)が主人公だ。
 大宮二等兵は、元ヤクザだけあり、兵士としては別段有能でも勇敢でもないが、上官を平然とないがしろにして酒と女に明け暮れる豪放無頼の漢である。
 一方の有田上等兵は、大卒のインテリで軍歴は四年に及び、本当は下士官か将校くらいになっててもおかしくないのだが、軍隊が嫌いなので敢えて万年上等兵の地位にあり、落ちこぼれ軍人の大宮を何かとかばい、行動を共にしてゆく。
 まさに、自らの意志で積極的に戦争に参加し英雄として活躍したわけではない、むしろ、厭戦的立場ながら兵隊にさせられた人間の立場で描かれた映画である。
 この作品では、劇中、中国軍のスパイとして日本軍に捕えられた少女が、あわや日本軍の悪徳将校に手篭めにされかかりそうになるのを主人公が助けて逃がす場面などがある。現実にこのような行動を取った日本兵が戦時中そうそういたとは思えない。戦後、先の戦争における日本は悪だった、という価値観が定着してからのものの見方が入っているだろうとも感じられる。しかし、戦時中当時にも、現実にはそうしなかったものの、もし同じような場面に立たされたなら、大宮二等兵や有田上等兵のように思った(しかし勇気が無くて、上官が怖くてできなかった)という人間もある一定数はいたに違いない、とわたしは思っている。
 また、ヤクザ者の大宮と、インテリの有田の奇妙な友情(見方によっちゃホモ臭くさえ見えるほどの)も、現実にはこういうのって中々なかったんだろうけど、日本的な、庶民の願望としての、またインテリの願望としての「反骨的ヒーローとしてのやくざ者への憧れ」が反映されているようで、外国人に日本人庶民の気質の一側面を理解してもらうのにはお勧めできるんじゃないかなあ、と思うんですがね。

 「独立愚連隊」では、三船敏郎演じる、一見ビシっと振る舞っていながら実は頭のおかしい関東軍将校だの、フランキー堺演じるユーモラスな中国軍将校との、戦争でありながらどこか牧歌的な(とゆうか、ありていに言うとマヌケな)やりとりがあったり、中国戦線の戦争といえど、決して悲惨一色でない側面もあったろうことを感じさせてくれる。
 「独立愚連隊西へ」のラストでは、戦闘に生き残った兵たちが、軍を棄て自由な馬賊となり、大陸をいずこへかと去って行く場面で終わっている。ここには、中国大陸の戦争が、日本人の兵卒たちにとっては、決してただ、敵味方双方に血なまぐさい悲惨な戦いであったというばかりでなく、異郷の大地へのロマンを伴うものだった、ということが込められている。

 「独立愚連隊」と同じ岡本喜八監督の「肉弾」は、中国戦線物ではなく、まあ敢えてジャンル分け(「日本の戦争映画」の中での更に第二次分類)すれば「特攻物」ということになるか。が、「特攻物」としてもっともメジャーな神風特攻隊や、あるいは人間魚雷回天とは異なる。大戦も最末期、ドラム缶に入って海へ流され「人間機雷」となることを命じられた主人公の話である。
 これを入れたいと思ったのは、「兵隊やくざ」と「愚連隊」には乏しい青春残酷物語の要素が入ってるからだ。
 「肉弾」の前半は、特攻作戦で死ぬことが決まり、代わりに軍からつかの間の自由を与えられた主人公と、偶然知り合った少女の交流が描かれる。特攻で死ぬ前に最期の一発、とばかりに女郎屋に行く主人公だが、出てきた女郎はひどいおばはんでとてもヤる気になれない(嗚呼、そーいうことっていかにも実際にあったろうなあ、と思える話だ。戦争と別の意味での青春の残酷である?)。すっかりしょげる主人公だが、結局、その偶然知り合ったセーラー服の清楚な少女とお近づきになることに成功する。主人公は感涙して叫ぶ「君のためなら死ねる!」
――が、主人公が特攻に出陣する前に、少女の方が空襲で死んでしまう。俺は一体何のために戦争に(死にに)行くのか? と頭を抱える主人公、だいたいドラム缶に入って人間機雷になったところでこんなもんが何の役に立つのか……と、そんな理不尽にして残酷な物語が、どこか突き放した視線でユーモラスに描かれる。

 さて、問題は、以上3作「兵隊やくざ」「独立愚連隊」「肉弾」の英語字幕版なりスペイン呉字幕版が出てるのか? ってハナシですが……

――そーいや、以上を書いててふと思ったが、山田風太郎の「戦中派不戦日記」を映像化しようという風変わりな映画監督かプロデューサーはどっかにいないものかね?
 実に安易かもしれないが、風太郎の「戦中派不戦日記」を映画化するならこれも岡本喜八、もし漫画化するなら水木しげるで決まりだな、と思う。わたしは、山田、岡田、水木、の三者にはどうにも似た印象を感じるところがある。三人とも同世代(戦中派)だが、共通するのは、妙に乾いた、明るいニヒリズムと突き放したユーモアであろうか。
 もっとも、水木に関しては彼の戦争漫画や戦争エッセイは徹底して庶民出身の兵卒のリアリズムに満ちているが、山田の日記は多分にインテリ的思索が前面に出ていて、かつ表題の通り実際には戦争に行かなかった人間の書いたものだから、実はかなり立ち位置などが違ってもいるのだが。どーですか、奈落先生?

 で、「外国人にお勧めしたい日本映画」という今回のお題なのだが、とりあえず今回は「戦争映画篇」ってことで行ってみましたが、同じように「時代劇篇」とか「ヤクザ映画篇」とかいろいろできそうな気がするな。
 だいたい、先にも書いた通り、わたしが日本人および日本文化にまつわる重要なテーマと思うのは、「共同体と個人」、地縁だ血縁だ上司部下の関係といった集団の軋轢と個人との葛藤だと思うんですが、それが一番物語として分かりやすく描き込まれるジャンルはというと、まずサムライの世界、時代劇じゃないかな。忠義と私的個人感情との葛藤とか、土着共同体と自由だが辛い個人の対比とか、そういうテーマの話ですな。時代劇ジャンルの中のいわゆる浪人ヒーロー、例えば「あっしには関わりのねえことでござんす」の木枯らし紋次郎とかってのは、現実には、共同体の同調圧力に対し「あっしには関わりのねえことでござんす」と云いたくても云えない人間が多いからヒーロー視されるヒーローでしょうし。
 で、そういうテーマを、戦後の現代を舞台にして、物語としてわかりやすく、アクションやバトルもある作品として描こうとすると、まあ、ヤクザ映画になると思うんですな。ヤクザの世界というのは、戦後の現代にあって、ある意味では、古風な、武士道とかに見られる忠義やら自己犠牲やらが生きてる世界です。といっても今では実際には、ビジネスライクな、現代的なものになってしまっている面が強いでしょうが……ってゆうか、少なくともフィクションとして、物語の題材として、そういう古典的日本的な「共同体と個人の関係」テーマを題材に入れるのには便利な題材だろうとは感じられる。

 やくざ映画と日本人について、蛇足ついでながら、これは以前ばくはつ五郎氏が言ってたことだが、「ソナチネ」をはじめ、たけしの映画にはなぜヤクザ物が多いかっていうと、例えば「ソナチネ」はゴダールの「気違いピエロ」をなぞってるとよく云われるんだが、フランスだと「気違いピエロ」の主人公みたいな(何で飯食ってるのかわからんような)有閑有産階級ってもんがあるんだが、日本でああいう話をやろうとすると、そんな有閑有産階級なんて存在しないからやむなく主人公はヤクザってことになるんだ、ってことだそうで。
 フランス映画的な、気ままで個人主義な主人公ってのは有閑有産階級ゆえであるということと、日本映画でそれをやろうとしたらヤクザしかあり得ない、というのもひとつ深く突っ込んで考えてられるテーマのひとつとゆう気がしますな。

――といったところで、無駄に引っ張りましたが、今回はこんなところで。

 
 
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