■B級保存版  
 
「正気の狂人」と「無冠の帝王」
  (執筆:1997年8月 一部加筆修正)

 
 

 「この世に正義はない、と人は言う。しかし、あの世にだって正義はない。」
アレクサンドル=プーシキン『モーツァルトとサリエリ』第一幕第一場

以前「B級保存版」開設に当たり、「坊や哲宣言」ってのをやったが、「ドサ健」と「坊や哲」という例に続いて、「B級、二流ながら、しかし二流なりに誠実にして一生懸命の人生」ということを語るために引き合いに出したいのが、大杉栄と甘粕正彦の話である。

 無政府主義者大杉栄(1885-1923)に関しては、浅羽通明氏が別冊宝島の『巨人列伝』にその人物像を、その魅力と危うさの両側面併せて書いてくれている。この文章を半ば意地悪く読まれれば、浅羽氏がかつて大杉の生き様に強く魅せられ、「しかし、俺にはこんな生き方はできそうにもない」と結論したのであろうということが伺えるだろう(ついでに言えば、別冊宝島『おたくの本』収録の富沢雅彦伝にも同じことが言えるのだが)。
 大正のドン・キホーテ大杉は、確かに魅力的な人物であったろうと思う。自分も、中央公論社の『日本の名著』シリーズの大杉の巻で、「生の拡充」やらロシア革命論の「そんなことはどうだっていい問題じゃないか」などを読み、なるほとこいつぁカッコいいや! と思ったもんである。
 しかし、この大杉という男は、10メ−トルばかり離れたところから見る分にはヒロイックなキャラクターだろうけど、実際に自分の友達であったりしたらこれほどメーワクなキャラクターもおるまい、というのも正直な印象でもある(「おめーこそだろーが」だってぇ? そりゃ承知の上だ)。何しろ、次から次へと女にゃ手ぇ出してトラブル起こすわ、同志の筈の同じ「主義者」を非難しまくるわ、書く本出す本片っ端から発禁なもんで年中貧乏してて借金まみれだわ、それを好きこのんでやってんだから、本人は大した生命力の持ち主としか言いようがないが、友達にするにはこれほど困った懲りないヤツもおるまい。常識的な世間に向かって弁護のしようもなかろう。
 こうした大杉の破滅的生活は、端から見る分にはエンターテイメントでも、自分に出来るかと言われたらやっぱりまず出来そうにもない。そして、大杉もまた決して豪放無頼のヒーローというばかりではなく、現実には明治大正の日本の現実を変革するには力を持ち得なかった無力な存在だった。吉田喜重の映画『エロス+虐殺』(1969年公開/モノクロ)の中で、獄中で「執筆活動なんざ所詮は知識的手淫……」と呟く大杉、貧乏暮らしの中、愛人の伊藤野枝の元の亭主の辻潤の目を気にして日常を送る大杉の姿もまた、紛れもない現実の彼の姿であったろう。

 さて、そこで「大杉を殺した男(とされている)」甘粕正彦(1891-1945)である。大杉はその死後、知識人の間では明治大正の日本の軍国主義の悲劇の犠牲者、殉教の英雄という地位を得た。しかし、不謹慎を承知で敢えて言えば、これも若くして溶接もとい夭折した尾崎豊みたいなもんで、なまじこーいう死に方をしたがゆえの過大評価が混じってなかったろうか? 大杉があのまま生き延びて何か形ある事をなし得たか? 「一生一主義者」として醜くない老後を送り得たか? は分からない。「大杉栄伝説」は彼を殉教者として永久に凍り付いた時間の中に閉じこめた男、甘粕正彦の作品ではなかったか?
 ここで思い出すのがアマデウス=モーツァルトと、彼を天に送ったと噂されるサリエリの伝説だ。プーシキンの戯曲『モーツァルトとサリエリ』では、モーツァルトの天才に憧れ続け、ついぞ自分はモーツァルトには勝てんと悟ったサリエリが、ならばといっそモーツァルトを毒殺する、という筋書きである。しかし、それはライヴァルを蹴落とし自らが栄光を得るためではなく、むしろ、モーツァルトが老醜をさらすことなく、夭折の天才として永久に名をとどめることを意図しての、モーツァルトへの屈折した敬愛と畏怖の情が為したもの、と解釈されている。

 「王道楽土・現世楽園」こと偽大満州帝国の無冠の帝王、甘粕正彦は、良識的戦後民主主義者の間では一方的に「冷酷非情なる日本軍国主義の犬」として語られ、またその反動か、ちょっとひねくれた倒錯頽廃お耽美主義者の間じゃ「クールでダーティな(笑)悪のヒーロー」と勝手に美化されている(たぶんベルトリッチの『ラストエンペラー』であの坂本龍一が演じたイメージの影響もあろう。わたしは、甘粕を演じさせるなら竹中直人かな、と、ずっと思ってるが)。
 しかし、わたしはその両方とも極端な解釈による誤りであろうと考える。わたしの思う甘粕像というのはこうだ、彼は結局のところ最後まで自らが望んだものになれず、また悪党さえなり切れなかった中途半端な男であり、そして日本近代史上類を見ない過剰で卑屈な忠誠心を抱きつつ、しかしそのことに対する責任感だけはこの上なく強かった男、オタッキーな言い方をすれば、押井守言うところの「犬のようにしか生きられなかった男」、それが甘粕正彦ではなかったろうか………。

 甘粕の軍人としての人生は、かつて大杉も通い更に後の陸軍大将東条英機を輩出した名古屋陸軍幼年学校に通うところから始まる。幼年学校時代の彼については、チビのくせに紙で作った勲章を胸にぶら下げて将軍気取りするお調子者であったとかいう話が伝わっている。まぁ、世間知らずな若者の頃には「田舎の秀才」という狭いレベルで自分の才能を過信して、分不相応に天才気取り、英雄気取り、ってのはありがちなことだ。大杉も同じ幼年学校時代には、ノー天気に「末は陸軍大将」を夢見つつ、同時に相当の自信過剰な突っ張った生徒だったらしいが、結局のところ軍などには収まりきらない強烈な自己主張の思想を持った大杉は、結局幼年学校を中退して、軍人として英雄になる道を早々に自ら捨てている。
 甘粕が我々の知る甘粕となるきっかけは、彼が陸軍大学に在学中、演習中の事故(落馬)により右膝を痛め、やむを得ず歩兵将校としてのエリートコースを外れて憲兵になったことによる。彼はいかにも当時の日本の武人らしく、陸軍軍人たる者やっぱり歩兵が勤まらにゃカスと考えたいたらしい。それで一度は除隊(退役)を考えたものの、憲兵みたいな汚れ役の仕事もなけりゃ陛下の国軍の清潔は保てまい、と甘粕を諭して軍にとどまらせたのが東条英機だとも言われる、これはあんまり出来すぎててにわかには信じがたい話だが、実際、士官学校では若き日の東条中尉が甘粕のいた隊の修養班長を務め、後年、満州に渡って以降も東条は甘粕の兄貴分だったと伝えられる(ちなみに、朝鮮時代の甘粕の上官は、明治期に満洲で軍事探偵として活躍し、手記「城下の人」シリーズを遺した石光真清の弟、石光真臣だったらしい)。
 かくして、軍人でありながら片足びっこの片端者として憲兵という職分に就いた甘粕は、やがて植民地の朝鮮半島に派遣され、憲兵としてはすこぶる模範的に有能な働きぶりを示したと言われる。彼は片端者ゆえの一兵士としての無力を過剰に恥じる余り、ある種過剰なまでに模範的な忠誠心を示すゴチゴチの軍人になったのではないか? とわたしは考えている。
 一説によれば、甘粕は当時の日本の軍人にしては珍しく、洋盤のレコードを集めて聴くような文人的趣味の持ち主だったとも言われるが、一方、後年満州に移ってから満映理事としてプロデュースした最初の文芸作品は、くそまじめ過ぎて退屈でとても観てられない映画だったとも言われる。要するに、彼は英雄に憧れながら武人にもなりきれず、かといって文人にもなりきれない中途半端なヤツだった、というのが実際のところではないだろうか?
<FONT size="-1"> ちなみに、余談ながら、片脚が不自由であったため軍隊でのエリートコースを外れた甘粕は、後に満映で映画に関わったわけだが、一方、ドイツのナチス幹部の一人ゲッベルスは、片脚が不自由であったために若い頃徴兵検査に落ちた挫折の過去を持ち、その後ナチス党のプロパガンダに映画というメディアを大いに活用しており、どこか甘粕と奇妙な類似点を持っている。
 どうもゲッベルスが映画という表現手段に着目したのは、現実には軍人のように肉体的な活躍ができないコップレックスの発散の場を、映画という虚構の世界で自由に自らの英雄願望を描き出すことに求めたのだろうか…と感じるのだが、甘粕の方は、どうにも、ゲッベルスのように本気で映画というものに入れ込んでいたというより、あくまで仕事で映画に携わっただけ、という印象がなくもない。</FONT>

 大正12年9月、関東大震災直後の帝都での大杉栄(及び大杉の内縁の妻・伊藤野枝、大杉の妹の子・橘宗一)殺害は、今日明らかになっている様々な状況証拠からは、震災直後から震災のドサクサを利用してかねてよりの獅子身中の虫、「主義者」たちの一掃を図っていた帝国陸軍当局上層のはじめからの陰謀であったとされる(当時の警視総監、後の読売新聞社社長の正力松太郎が、大杉が実際に殺される前から、陸軍からその死亡を聞かされていた、というのは有名な話だ)。
 しかし、この事件は、愛国心の余り「主義者」を激しく憎む忠誠心の鬼のごとき軍人・甘粕正彦憲兵大尉が、その自らの自発的意志によって行ったものと報じられ、後世も長くそう伝えられた。真相に関しては、甘粕は秘密裏に陸軍上層から「主義者」大杉の暗殺を命じられ、部下を引き連れて大杉を検束、後は部下に任せたところ、部下は大杉ばかりか伊藤野枝にまだ幼い子供の橘宗一までぶち殺してしまった、というのがもっとも確実性の高いところらしい。事態の発覚後、陸軍は世論の指弾を浴びることになる、「主義者の大杉はともかく子供まで殺すこたぁねぇじゃねぇか」と。
 だが、彼は真相を語らず、上層部からの命令と部下の暴虐を自分の汚名として引き受けようとする。世論はやがて勝手に一人歩きし出し、逆に彼を英雄と誉め讃え、減刑を嘆願する動きまで出てくるのだが、すると今度は彼を大杉の仇と憎む若い「主義者」たちが、甘粕のまだ幼い末弟を襲撃して怪我を負わせるという始末……。軍の刑務所の中で、彼は何を思ったろうか……?
<FONT size="-1">しっかし、後に中国大陸での戦争が拡大すると、戦場で女子供を殺してしまった日本兵などごろごろいたんじゃないか? という気もする。戦時に、敵国の女子供を殺しても帝国陸軍の恥にはならないが、平時に、自国の女子供を殺せば陸軍の恥になるというのだろうか――つくづく人の命は平等ではない、ってことでしょうかねえ……</FONT>

 世の中は、彼を冷酷非情の極悪人として裁き葬り去ってくれるほどにも優しくはなかった。懲役10年を宣告された甘粕はわずか2年半ばかりで出所する。彼は陸軍全体の汚名を一人で一身に背負った身として後半生の見返りを保証されていたが、そこですぐに「大満州帝国の無冠の帝王」が誕生したわけでもない。
 彼は再び歴史の舞台に名前を見せるまでの数年をヨーロッパのフランスで過ごす。これは陸軍が費用を出してくれた上での留学だったそーで、そう聞けば「良いご身分だ」とでも思えるが、実のところ、甘粕自身は獄中時代以上の孤独と屈辱を味わったらしい。それはミもフタもなく言って、世間のほとばりが冷めるまでの島流しだった。彼はせっかくおフランスに来たってのに、異国の地で話す相手もなく、その生活をちっとも楽しむことも出来ず、軍人としてのすべきこともなく、屈辱的な無為と自由という退屈の檻の中で滞欧生活を送ったと言われる。
 自由の魂の化身、大杉がかつてフランスでメーデーに参加して逮捕され、獄中においてもワインを舐めつつこの機会にとフランス語を勉強し、と、獄中に於いてさえ生の愉しみを見出していたのとはまるで対称的な、ぎごちなくも不器用で不自由な生き様ではないか……。

 そして、甘粕は満州事変の前年、1930年にやっと満洲へと呼ばれ、憲兵以上のダーティ・ワーク、諜謀略活動の専門家として本領を発揮し始める。自ら「不穏中国人」に扮して在満日本人の不安を煽り、関東軍の行動を正当化する演出をやってたとかなんとか。
 やがて、世界恐慌とこれに端を発する日本の危機が生み出した満州事変の結果の、虚像の楽園・偽ユートピァ大満州帝国の出現は、この英雄になり損ねたまがい物の男におあつらえ向きの舞台を与えた。彼はやっと出番が巡ってきたかのように表に顔を表し、満州国の事実上の警視総監を務めるわ、満州国を実質的に統治する政治結社満州協和会の総務部長として働くわ、更にヨーロッパへの使節団のリーダーとしてヒトラーやムッソリーニに会見している。しかしこれで、甘粕が20世紀中期の歴史上に名を残す重要人物だったなんて思うのは早計だ。「五族協和」の「王道楽土」「地上楽園」大満州帝国は(当時から現在までの現地中国人の言い方に倣えば「偽満州国」は)、壮大なウソっぱち、空虚なまがいもののユートピァに他ならなかった。何しろこの国は一応13年の歴史を持ちながら、ついぞかりそめの物としてであっても憲法もなけりゃ国籍法にもとづく国民だっていなかったってんだから!(※このことはかわぐちかいじの漫画「ジパング」にも書かれてましたな)。
 しかしだ、甘粕正彦は、満州国がそんな虚像の楽園、うそっぱちの偽ユートピァであるということを、この国を支配した側の日本人の中では誰よりも一番重々自覚していたのではないか? と俺は思う。関東軍の野蛮な軍人連中は当地の支那人を銃剣で脅して従わせてられりゃそれでご機嫌だったろーが、もはや軍人と名乗るのもおこがましい屈折した片端者の甘粕元大尉は、そんな関東軍将校たちを苦笑しつつ眺めていたのではないかと推察される。
 実際、満州に渡って以降も東条は依然として甘粕の兄貴分であり続けてたというが、長年の不遇ですれてしまった甘粕は、「努力すれば絶対に勝てる」と単純まじめ君のポジティヴ思考を全国民に押しつけてジリ貧の大東亜戦争を続けさせたこの指導者を内心ではいー加減にうざったく思い、むしろ、ある種大杉にも近い種類の突き抜けた才気の人物であり、故に東条に嫌われた石原完爾の方に共感を寄せるようになって行った、とも伝えられる……。

 偽満州国において甘粕が為したことは、ここが偽楽園であると知りつつ、偽楽園なりに精一杯に誠実に、他国に誇り得る独自の文化を根付かせるということであった。そこが偽楽園であると分かっているのなら「どーせ偽楽園なんだからいー加減でいーじゃん」とニヒリスティックにもなるというのもありだ、その方がもっともかも知れない。しかし、甘粕はそれをいー加減で済まそうとはせず、偽楽園なりに少しでも実のある「より良きもの」を目指そうとした、それは彼の「犬のようにしか生きられなかった男」卑屈なまでのくそまじめな忠誠心が為したことであろうと思う。
 甘粕は、先に述べた欧州歴訪から帰ると、満洲協和会総務部長を退き、満映理事に就任する。その「満映」では、内田叶夢をはじめ元左翼出身の映画人が大胆に起用されていたという。これは甘粕が無意識の内にか大杉殺しの贖罪のために、日本本国にいられなくなって満州に逃れてきた左翼を救おうとしたのだとも、自分が支配者の立場で左翼の人間を飼ってやるという虚栄心のためだったとも言われるが、最大の理由は、「満映」が立派な映画を生み出すためには思想の左右に関係なく有能な人材を起用するより無い、と彼が考えていたためであろうと思う。

 1945年8月、大日本帝国はポツダム宣言を受諾、大東亜戦争は終結する。同時に偽満州国も地図の上から消える運命をたどることとなる。日本人の大陸支配への復讐に燃える中国軍ゲリラを恐れての慌ただしい引き揚げ作業のさなか、若き日の森繁久弥は甘粕に「満州は良かったねぇ」と呟いたと言われる。かつて勇猛を誇った関東軍の武者たちが、醜い自己保身意識剥き出しで民間人を押し退けて引き揚げのための列車に乗り込んで行く姿に甘粕は怒りを飛ばし、民間人の脱出を優先させるよう手筈を整えさせたと伝えられる。
 甘粕以外の満洲に君臨した日本人の大物には、関東軍の石原莞爾、板垣征四郎、東條英機、また満鉄の松岡洋右、星野直樹、官僚の岸信介、ほか児玉誉士夫などがいた。そのほとんどは、敗戦までに内地日本へ引き揚げ、敗戦後、戦犯として処刑されたり、あるいは戦後を生き延びているのだが、甘粕はその中でも数少なく、満洲國の崩壊と自らの運命を共にしている。
 甘粕は「最期を遂げるにしても祖国日本で」とは思わなかったのだろうか? 恐らく、かつて大杉殺しとして陸軍の汚名を背負った彼は、日本には還る場所を持たず、満洲と心中するつもりであったのではないだろうか、と思われる。
 甘粕は「満映」の部下だった職員にこう語ったそうだ。「私はもと軍人でしたから、日本刀で切腹をするべきですが、不忠不尽の者であまりしてそれに価しませぬゆえ別の方法でしぬことにしました」と。果たせるかな、彼は8月20日の早朝に青酸カリを飲んで服毒自決を遂げた。
 有名な辞世の句は「大ばくち 元も子もなく すってんてん」である。彼は最後まで自分を笑っていた、しかしこの句にそこはかとなく漂うユーモァが、何かわずかな救いになっているようにも感じられる。

 「偽満州国」「偽首都」の新京(現:秦陽)の街並みには、ここに「偽帝国」があった当時、甘粕の配下にいた人々が精一杯の虚勢を張って築いた当時最新のモダンな建築の多くが「偽帝国」の崩壊から50数年を経てなお残り、この地に住む人々によって使われ続けている。
 そして1950年代の日本映画の黄金時代は「満映」によってその下地が築かれた部分が少なくなかろう、50年代の日本の映画人の多くは「満映」に学んでいるのである。
 甘粕の為した空虚な努力の中に、後世に残る形ある「善いこと」があったとすれば、無理に探してこのふたつぐらいなものだろうか? いづれの業績においても、「無冠の帝王」甘粕の名は歴史に語られない。
 彼はついぞ英雄にはなり損ねた。彼は一生涯、男の度量という点では大杉に勝てなかったかも知れない。しかしそれでも、甘粕もまた立派な男だったと思いたい。

■参考文献:
・『甘粕大尉』角田房子(中公文庫)
・『断影 大杉栄』竹中労(ちくま文庫)
・『キメラ―満洲国の肖像』室山信一(中公新書)ほか

 
 
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