■B級保存版  
 
長渕剛/宮崎勤論序説 ※「地方」「高卒」「男」という暗黒大陸(予告篇)
  (執筆:1997年6月頃)

 
 

 ●知られざる日本のサイレントマジョリティ?
 前回までの「B級保存版」では宮台真司先生とそのフィールドワーク対象であるブルセラ女子高生やクラバーキッズ、そして宮台氏のファン・読者の方々への疑問点を論じてきたわけですが、それらについて考えている内に、それって実はほとんど東京ローカルの、それも本を読む人間だけの話題でしかないんじゃないのか? ってな疑問を抱きました。
 そこで今回からひとつ、これまで語ってきた宮台真司先生とそのフィールドワーク対象、そして宮台先生のファン・読者の方々とは完全に住み分けられた補集合の関係に当たる「地方」「高卒」「男」という問題についてを考えてみようと思っています。
 「地方」かつ「高卒」かつ「男」というのは、実は日本のサイレントマジョリティです。でも、その内実についてきちんと語られたことなんか(俺の知る限り)ぜぇ〜んぜんありません。
 まぁムリもないことです、「地方」で「高卒」の「男」なんて、実際、マスコミで語るのにもなぁ〜んの商品価値もありませんし、ここでこう「地方」で「高卒」の「男」とひとくくりに云ってみても、それは全く千差万別でとらえどころがなく、まぁ「会社員」とか「サラリーマン」って一言で日本の勤労男子のほとんどをひとくくりに語ろうとするぐらいに無謀なことでしょう。
 地縁や血縁といった伝統的な共同体の基盤がなし崩しになり、しかし近代的な個人主義の根拠もない今日の日本で「地方」かつ「高卒」かつ「男」という立場には、当然宮台先生の云う「輝き」もなく、かといって彼らは女子高生にもなれないし、田舎にはクラブもなく、あっても田舎だからそんな多くの人間がたむろしてるわけでもなく、いるのは顔見知りばっかりで、首都圏のようなクラブキッズにもなれません、要するにぜんぜん「まったり」どころでもない、ってワケです。
 かくのごとき世界に生きる「地方」かつ「高卒」の「男」のほとんどは、人数の少ない職場で歳の離れた人間に囲まれたりして生きることになります。ここで健全に適応力のある人間は地方特有のイエ社会的束縛に自らを同化させて正しくヤングオヤジ化してゆくものであり、実際これまでほとんどの日本のサイレントマジョリティはそうしてきたのですが、戦後日本に置ける教育とマスメディアの普及、そして前述した、地縁や血縁といった伝統的な共同体の基盤の空洞化により、「地方」かつ「高卒」の「男」でありながら運悪くしてはっきりと「個我」を持ってしまった人間がじわりじわりと生まれているわけです(そう、俺こそがそうだったのだぁ! って、まぁた恨み節モード入ってるや、やべぇ)

●不完全版:近代「おたく」チェックリスト
 さて、以下にいきなり変なチェックリストを作ってみました。あなたはここに挙げた項目に幾つまで該当する物がありますか?

一人称を「私」と言う(これ、女性なら別に変ではありませんが)
日常会話の中で他人のことを言うとき「○○さんは〜」と言わず「○○氏は〜」と言うことがある
日常会話で、意味的には「××さんはうちに居ますか?」と言うところを「××さんは在宅ですか?」というように、漢語で言うことが多い
自分で自分のことを「××は」などと言うことが時々ある
基本的に酒・煙草をやらない
年齢を聞かれたとき「××歳です」と答えず「××年生まれです」と答えてしまうことがある
例えば「隆明」という名前を音読する場合「たかあき」ではなく「りゅうめい」と発音する
地方出身だが、地元でも方言で喋ることは少なかった
他人がことわざの意味などを間違えて使っていると、ついつい正しい意味を言わずにいられない気分になってしまうことがある
10 中年の親戚や教師や職場の上司と一緒に酒を飲んだとき、相手が酔ってもどうしても自分は酔うことができない
11 中学生ぐらいまではけっこう優等生だった
12 一度くらいは「自分は天才かも知れない」と思ったことがある
13 元いじめられっ子だったことがある
14 小中学生の頃、やたらクラス中の委員をやらされた。あるいは、自発的にやっていた
15 中学高校当時の教科書類は棄てずにとっている
16 駅前で宗教の勧誘やキャッチセースルによく声を掛けられやすい
17 家庭に複雑な事情があったかと言えば、まぁあったとも言える
18 他人のいる場で何か失敗をすると、聞かれていなくても、独り言でその理由を弁明してしまうことがある
19 プロ野球にあんまり興味がない
20 自分の前で自分ではない他の人間が怒られているのを見ると何か安心する

 これ、いったい何のチェックリストなんじゃい? と云われそうですが、実は作った本人もまだその定義がはっきり言えません(おいおい)。
 まぁ、敢えて云うと、変な言い方ですが「地方在住でありながら友人知人や家族との直接対話よりも、書物やメディアや学校の教育の方からから自我が形成されてしまった人間のチェックリスト」とでもなるでしょうか? さらに直裁に乱暴に云ってしまえば、俺の考える「おたく」の定義ですね。「おたく」という言い方が良くなければ「知的大衆」と言い換えても良いと思います。
 上記の項目にはそれぞれ根拠があります。例えば、まず「1」普通、日常会話で男が「私」ということはあんまりありません、大抵「僕」か「俺」です。「私」というのは性別を脱臭されたニュートラルな表現であり、もっぱら書物の中でのみ使われる一人称です。普通の男子が「私」という一人称語法に初めて触れるのは、ふつう、中学で英語を習うようになってからです、英語の授業では「I」が性差を脱臭した語句として「私」と訳されます。このような場でしか使われない「私」という語を日常会話で使う人間は通常あんまりいないものです。
 以下2、3、8、など、全部、友人知人や家族とのファイストゥフェイスのコミュニケーションよりも書物やメディアや学校の教育から頭の中の思考言語が形成されてしまった人間の特徴であると思います。その他には、自分で自分のことを客観視してしまうような思考を持つタイプの人間が取る行動パターンと思われることを書いておきました。って、そのサンプルはほとんどのこと自分なんですが。
 こんなことを書いて何が云いたいのかというと、今のところはっきりした目的は別になく、ただ指摘してみただけです(おいおい)。まぁ「予告篇」ですから、その問題の掘り下げは今後展開してゆくつもりです。
 で、上記のチェックリストがかなり該当する人間ってのは、つまり、地方在住でも「個」を持ってしまった人間、ってことになるんじゃないかと俺は思っています。ところが、地方では個人が個人として存立することが極めて困難だったりする。じゃ、そのような人間はどうなってゆくのか? それが本論です。

●「高卒」と「大卒」の根本的違いについての私論
 こーいうことばっか言ってるせいか、最近あっちこっちで「お前は学歴って問題を気にしすぎだ」と言われるんですが、俺が「地方」や「学歴」を問題視してるのには根拠があるんです。大体「学歴なんかカンケーない」とか云う奴に限って自分は高学歴だったりする(いとう○いこう、地獄へ堕ちろ!)。そりゃ確かに宮崎勤の手の障害みたいに「気にしてんのは本人だけ」でハタ目にはどーでもいい些細なことかも知れない。でも、あくまで「一つの側面」としても問題は確実にある。
 自分の地元の友人、または自分の知ってる高卒上京者の知人の姿などをみるに、大卒と非大卒(含短大・専門学校卒)じゃ明らかに人生観に明暗があります。まぁ、先にも書いたとおり、「地方」かつ「高卒」でも、多数派は正しくオヤジ的世間に自己を同化できますが、それが難しい、「地方」で「高卒」のまま強い個我だけは持ってしまった人間ってのは避けがたくして孤立することになり、けっこう悲惨なもんです。
 じゃ、その「高卒」と「大卒」の明暗ってのは何なのか? 学歴による収入の格差? 世間体? 異性へのモテ方? NO! NO! 俺は、そいつはまぁ言ってみれば、学歴によって得ることの出来る世界観、人間観の広さ、そしてここから来る心のゆとりの違いだと思いますね。
 どーいうことかって言うと、大学まで進学すると、別の地方の出身者とも知り合えるし(これは東京の大学に限りません。例えば福岡の大学なら、三流校でも鹿児島や長崎や山口などの近県からの入学者が来ます)、留年・浪人・社会人入学その他で年齢の異なる人と一緒に席を並べて学ぶこともあり、それに世の中には大学のOB学閥って「世間」もあります。
 しぁかし! これが高卒で人生終わると、同年代の友人ってのは地元の高校中学在学当時までで、人脈の輪がなかなか広がりません。地方在住かつ高卒の人間が、仕事の場以外で友達や知り合いを作る場は通常は滅多にないのです。就職して以降の仕事上での付き合いってのは、少なからず職場の利害や上司・部下、先輩・後輩の力関係が作用するため、素朴にピュアな対等の友達関係にはなり難いもんです。しかし、これが大学だとそーいう損得勘定抜きの人脈を作れる時間的余裕が最低4年間は与えられる(それは「おたく」の馴れ合い友達であって大人の関係じゃない、ってな突っ込みはひとまず置きます)。
 そりゃ当然、大学ってのはそんな可能性を持っていながら、それを生かせてない、そういう場として活用する必要のない健康な凡人の大学生もいるし、地方在住の高卒でも人脈が広く、人間観も広い人だっています、たまには。でも、基本的なスタートラインの差じゃ確実に高卒は大卒に比べ、そのへんで損をする人生を歩まざるを得ないというのも事実なんです。
 このへんのことは、自分の高校当時の友人で大学まで進んだヤツと高卒で就職したヤツを比較したりしてのリアルな実感に基づいているつもりです。実際、自分も現在の職場で、東京が地元で周囲がみな大卒って環境で育った人たちと話をしてると、やはり確実に何か違うという感じがしますね。ひがみとかは一切差し引いてみても。

 ここで記憶に基づくエピソードをひとつ。自分は高校卒業後、新聞奨学生として新聞配達の店に寄宿しながら学校に通って、つまり中上健次の「十九歳の地図」を地で行ってたんですが、その新聞の店には専門学校生と大学生が混在しており、両者の間には暗黙の内に派閥がありました。店内の学生はいずれも地元の高校を卒業後、東京の大学に通うために東京の新聞販売店に住み込みで働きだした身です。その中でも専門学校生の方には、その内に学校には通わなくなり、店内の男女でくっついたまんま(東京じゃ女の子の学生の新聞配達員ってのも少なくない)、事実上のただの高卒同棲カップルと化してるクチが時々ありましたが、大学生の新聞配達員の方はそーいうことはなく、きちんと学業を優先してました。どーいうことかって言うと、別にその店内じゃ大学生の方が持てないタイプだったってなワケじゃありません。専門学校卒なんて半端な学歴じゃ将来の展望もロクにないから、そこで若人は狭い世界観で単純な目先の快楽に行ってしまった、ってことです。一方、同じ店内にいた大学生の新聞配達員は、将来的には司法試験を受けるとか公認会計士資格を取るとかかなり明確な人生設計を持っていました。彼らは新聞の店内なんぞで女の子を引っかけずとも、将来的にまともな社会的地位さえつかめば女の子をゲットする可能性はなんぼでもあるわけです。
 まぁ、先のエピソードに関しては、新聞の店内で男女でくっついてしまった地方出身高卒上京専門学校生だってそれなりに自足してんだからそれなりに幸福な人生であって、問題視することはないじゃないか、とでも言われるかも知れません。実際、それで自足できればまだ幸福です。しかし、不幸にしてそういうレベルで満足できない、学歴に不自由なまま強い個我を持ってしまったタイプの、地方在住あるいは地方出身の高卒者もいるわけで、そういう人たちは人数の少ない職場で歳の離れた人間に囲まれたりして生きることによる閉塞感、孤立感、をいやおうなく背負って生きます。では、そんな彼らはどーしているのか? どーなってゆくのか?

●どこにでもいる宮崎勤?
 唐突な話ですが、皆さんは、先頃(1997年執筆当時)死刑判決された宮崎勤から「ロリコン」とか「ホラーマニア」とかいう要素を取ったら彼の人物を構成する情報スペックとして何が残ると思いますか?
 宮崎容疑者に関しては、今や、あれは分裂症であったとか多重人格であったとかいう要素の方が話題になっており、また、彼の場合は精神異常者であり、それこそ異常で特殊な例なんだから、あれは特例の別物、自分とはカンケーない、自分は大丈夫、とか思ってる人は少なくないでしょう。でも、彼だって何も生まれたときから異常者だったワケでもあるまいに、じゃあ一体どーいう生活環境がああいう人間を生んだのか?
 宮崎青年から「ロリコン」とか「ホラーマニア」ってぇ要素をさっ引いた時に下部構造として残るのは、まず、地方(東京都内でも23区外のかなりの田舎)在住、大卒未満の学歴(含短大、専門学校卒)、親元を離れたくとも離れられない家庭環境、職場は人数も少なく、話の合う人間もいない、ってなところでしょう。
 ……はっきり言って、このような人間は日本中にごろごろいるはずです。地縁や血縁と云った伝統的な共同体が力を持っていたかつての時代であれば、このような人間も正しくヤングオヤジ化してゆくものだったと思われますが、現代ではそうも行きません。宮崎勤の場合は、ついうっかり親の目の届かぬ部屋と自動車があったばかりに幼女殺しができてしまいました。
 もちろん、この条件に合致するヤツはみんな潜在的犯罪者だ、なんてアホなことを言う気はありません。しかし、この下部構造を抜きに「おたく」世代論一発だけの宮崎勤論ってのも何の有効性もないんじゃないかと思うんです。
 いきなり宮崎勤なんて極北の例を挙げてしまいましたが、そんじゃ、さすがに幼児殺しまではしないけど、「地方」「高卒」「男」で孤立していて、昔のよーに土着的共同体も力を失ってるもんだから心の落ち着き場所がなく、でもって宮崎みたいに(狭義の)「おたく」としての趣味さえ持てない人間、ってのはどこにいるんでしょうか? 今日、そーいう人は少なくないはずです。
 まぁある意味じゃ、何か特定の趣味を持った「おたく」になりきれる方がまだしもマシかも知れません。何か特定の趣味を持った「おたく」なら、まだしもその趣味によって自己のアイデンティティを規定したり、文通やパソ通やインターネットやその他の手段によって、「趣味」で遠く離れた土地に話のできる友達を見出して精神の安定を得ることが出来るかも知れないですから。
 リクルート社の「じゃまーる」とかWEB上の掲示板の「友達募集」「恋人募集」コーナーには、「おたく」にさえなれない、普通の、孤独な人々の淋しそうな書き込みが溢れてます……って、これバカにして言ってんじゃないですよ、俺にとっても他人事じゃないんだから。そこにあるのは、まぁ小難しく言ってしまえば、属性を剥奪された裸の個人、砂のような大衆、ってヤツですかね。
 こうした人々はなかなかそうは簡単に、宮台先生の言うように「まったり」化、健全に鍛えられた(適度にスレた)コミュニケーション・スキルの獲得はできません。で、いっくら若者は皆コギャルやクラバーキッズのようになってくことが不可逆的な傾向であるとしても、マスコミで語られないというだけで、「まったり」生きられないこーいう人間も少なくないわけです。
 今日のこうした人々の多くは、どっちかっていうと、孤独には耐えられないけど、でも直接的な組織的束縛のうざったさは嫌い、ってな感じじゃないかと思うんですが、逆に、自分から進んでそこに居場所を得ようとする分には組織的束縛のうざったさが苦にならない、むしろ楽しい、ってな人々、かつまた、何か「錦の御旗」のもとに集うことに陶酔を見出す人も少なくありません。で、そーいう人たちはどこへ行くのか?

●どこにでもいる長渕剛とファシスト予備軍?
 かつては、そーいう人々のある部分を右翼やヤクザが吸収し、ある意味で社会の安定を保つ役割を果たしていたと思います。右翼やヤクザってのは、うだつのあがらん低学歴のチンピラでも、そこに属することによって、自分が「何か巨大なもの(人の連なり、国家や民族など)」につながっているということによる安心感をもたらす機能があります。日教組が落ちこぼれを救えず、暴走族は日の丸が好きな理由はまさにここにあるのです!
(注:冷戦体制崩壊後の90年代に入ってから、今さら鬼の首でも取ったように左翼を批判し、生活実感と乖離したレベルでいきなり頭越しに「国家」だとか「民族」とかいう言葉を持ち出しているインテリ学生新右翼が目立ってきているますが、それらはこうした本来の土着的右翼とは根本的に違います)
 彼らは自分たちを国士や特攻隊員に見立て、俺達は落ちこぼれであるけれども、10NO陛下に命を捧げている、そんな俺達は英雄だ、俺達の方こそ一般ピープルをすっ飛ばして神聖な10NO陛下や民族や国家や伝統につながってるのだ、というプライドによって自らを支えています。そーいやこんなエピソードがあります、これは80年代の話で、今もそんなことがあるかは知りませんが、全国の少年院じゃ不良少年を改悛させるために10NOを美化しまくったプロパガンダヴィデオなんてものが上映されることがあるそーで、不良少年達はそれを観て涙を流しカンドーするそーです。「マジかよ?」って言いたくなりそうな話ですが実話です (※注:実際に法務教官として少年院に勤務した方から聞いたところ、どうやらこれは官が上から組織的に行なってることではなく、不良少年更生に力を入れてる民間教育団体がボランティアでそーいう教育啓蒙活動やってるらしいですが) 。
 ここで右翼や暴走族の崇める10NOや民族主義や国家主義なんてのは彼らの勝手な幻想だなんて言っても意味はありません、そんなことを言うなら、左翼インテリの唱える人権真理教やヒューマニズムも勝手な幻想じゃありませんか? そーいうことなのです。
 長渕剛という人はそのへんのウェットな心性に訴え、地方在住あるいは地方出身の無学歴者相手にナショナリズムを歌うことで強い支持を得ました。長渕氏もシブヤ系の台頭以後さすがにダサいものとされるようになってきましたし、そんな長渕氏を都会人インテリの立場からバカにするのは簡単ですが「長渕的な物」は日本のサイレント・マジョリティの心性をくすぐる物です。だから甘く見ることは出来ない、という気配りは必要かも知れないと思います。正直に白状すると、俺も上京直後はよく長渕を聴いていました。
 で、おおざっぱに言えば、1930年代のドイツでナチスに走り、また現代の欧米でスキンヘッズやってる冴えない白人ってのもそーいう層なのではないでしょうか? (橋本治は「蓮と刀」でフロムをぼろくそにけなしてたけど、「自由からの逃走」は名著だって俺は思うよ)これは「輝き」に縁のない、でもって「被差別者会員権」「弱者会員権」もないから人権ヒューマニズムでも救われない、でもって「輝き」も諦めきれない、そんな孤独な人たちがプライドを支えての生きる道として責めようのないことかも知れません。

 しかし、今日、汗臭く土着臭い右翼やヤクザは、さすがにヤングには人気がなくなってきています。暴力団対策法の施行以来、かつては土着的社会のダークサイドを担って、落ちこぼれを吸収しその居場所となる役割を果たしていた筈のヤクザは闇に追いやられ、若者の間では暴走族はダサいものとなり、代わりに仁義もクソもなく平気で素人衆に手を出し手加減も引き際も知らないアシッドにS浸けのアメリカンなチーマーが跋扈するようになってきています。
 右翼やヤクザの役割の一面、暴力性の方はそういうチーマーなんかに転じ、一方、属性を剥奪された個人、個我を持ちつつ個であることに耐えられず、かといって土着の共同体には戻れない、「まったり」ともほど遠い人々の自発的ファシスト本能の受け皿の役割の方は、今日、ソフト化した形で宗教団体に代行されています。
 土着の共同体の求心力が空洞化し、かといってキリスト教やイスラム教文化のような唯一絶対神もなく、10NO一家はすでにただの中産階級有閑主婦のアイドルと化してる現代のこの国で、従来の土着的共同体の代行機能をやってんのは、創価学会とアムウェイ(や幸福の科学や統一教会やその他いろいろ)だったんです。ここで「たかが創価学会にたかがアムウェイ」、と言われるかも知れません。しかし「たかが創価学会にたかがアムウェイ」だからこそ人々は集うのです。薄味ゆえの波及力、なめてはいけません。これがオウムみたいな本当に本気で常識的一般社会を敵に回して孤立の道を走る出家宗教じゃ1万人以上は集まりません、しかも、その中でも本当に本気で武力反乱を考えてたのはホンの数人です。
 俺が新聞奨学生をしてた当時、同じ新聞の店に地方出身の専門学校生の女の子がいまして、彼女は基本的におとなしくまじめなタイプでなんだけど友達も少なそうだったんですが、それがある時期から妙に明るくなり、実は創価学会に入っていた、ということがありました。なぁ〜んかもう「いかにも」というか「そのまんま」って感じです。彼女は、高校を卒業するや女の子の身で地元を後にして単身上京し、新聞配達しながら服飾関係の専門学校に通ってたわけですが、おとなしい性格ゆえに新聞の店でも専門学校でも親しい友達がなかなか出来ず、新聞の店と学校を往復するだけ、しかも専門学校卒なんて低学歴から来る将来への不安とかがあったんでしょう、で、創価学会っていう「巨大なもの」「巨大な人々の連なり」に自分も加わることで精神の安定を得た、と。なんかもー本当に構図が見え見えです。
 彼女はそれで幸福だったんじゃないか、何が言いたいんだよ? と突っ込まれるかも知れない。しかし、あいにくと俺自身は右翼でも左翼でも暴走族でもナンミョーホーレンゲッキョーでもアメリカ製の洗剤でも救われないし、コギャルやクラブキッズみたいに「まったり」もできなきゃ楽しい「おたく」にもなり切れません。でも、そーいう人って実は俺だけじゃなくて、世の中には少なくないんじゃないですか? だから、そのへんを考えてみよう、ってのがこれから先のテーマなんです。

 以上の問題を考えることは、まさに自分自身が地方になじめず東京に逃げてきて、無学歴のくせに幸運にも大卒の友人を多く持ち、半ば奇跡的に、幼児殺しもせず狂信宗教にも行かず比較的まだしも正気でいる身(※2002年05月現在)としての自己診断を含んでいます。
 今回は予告編のつもりで結構長々と書いてしまいましたが、可能な限りに近日中に本論を展開の予定です。

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