■B級保存版  
 
「B級保存版」−初心表明にかえて―― 「坊や哲」はいかに生きるべきか?――
  (執筆:1997年3月)

 
  ●それでも考えてしまう人間の弁明
 ども。この度、汎田礼先生の「永久保存版」にあやかって「B級保存版」てな雑文タレ流しコーナーをはじめさせて頂きました葦原骸吉て者です。まずは、自分で「俺って大してアタマ良くねぇよなぁ」って分かってるつもりでいながらこーいうものを書いてく、ってなことについて、言い訳をさせて頂きます。
 ものを考えたりするということは、本物の一流のインテリ(つまり”エリート”ってやつですな)だけがやればいいことであって、そうでない中途半端な脳味噌の人間は何も考えずにただ日々の労働や家庭生活をこなすか、あるいは、それが出来るならば無為に生きていればいいものなんだろうか?
 正しい、正しくないは別にして、半ば好みの問題ということで言えば、少なくとも自分は「そうじゃなないだろ」と考えている。
 思想というのは実は多くの場合、言ってしまえば、現在の自分の立場や好みをいかに正当化するかについてのへりくつだったりする側面を持つ。ナショナリストの「自民族は優越、敵の異民族は劣等」思想しかり、フェミニストの「極論すれば、男は悪・女は正義」思想しかり、保守主義者の「俺は現状が好きだ、変革なんざいらん」思想、革命家の「俺は現状は好かん、現状は変革すべきだ」思想しかり、ミモフタもなく言ってしまえば、多かれ少なかれ、そのような側面は確実にあるだろう。しかし、だからそれらは全て所詮はエゴイスティックな考えであり、ゆえに下らない、とは言わない。
 その思想の原初的な部分がエゴから始まっていようと、それを普遍的な物に鍛え上げて行く作業を積み重ねることによって、根本的には偏った意見であっても、より整合性が高く、多くの人々に受け入れられるべき思想に近づくことは出来る筈だろう。いや、そもそも自分の思想に含まれてるエゴの部分を直視して自覚し、その上でそれに普遍性を持たせる努力をする、というぐらい、物を考える人間としては当然の初歩的なことであるかも知れない。
 で、俺が何を言いたいかというと、やはり自分のことになってしまうのだが、「学歴もなければ社会的地位もロクにない四流五流の人間でありながら、しかしやはり本を読んだりものを考えたりしてしまう性癖を持ってしまっている人間(以下、ひとまずこれを「プチインテリ」と書く)がいかに生きるべきか? という問題だ。

●「坊や哲」としてのプチインテリ
 さて「二流以下の人間の生き方」ということについて考える時、俺がどーしても頭に思い浮かべてしまうのが、阿佐田哲也の小説『麻雀放浪記』の主人公、「坊や哲」だ。
 様々なギャンブラー群像が描かれるこの小説の中で「坊や哲」はこの物語の語り手を務めるが、彼は他の登場人物たちに比べれば受動的で内向的な若者という印象を受ける描かれ方をされている。はっきり言って『麻雀放浪記』の中では、主人公「坊や哲」よりも、その最大最強のライヴァル、野性的な狂気の天才雀鬼「ドサ健」の方が遙かにヒロイックで格好良く描かれている。しかし、小説としての『麻雀放浪記』の面白さは、物語が「ドサ健」ではなく「ドサ健」を眺めている「坊や哲」の視点で書かれているからではないか、と思う。それは、この小説を読んでいる側にいる我々自身の多くは「ドサ健」よりも「坊や哲」に近いはずである、ということを暗示している。
 「ドサ健」の視点で物語が展開してたら、初めの内こそ痛快無比に面白かろうが。まともな普通の人間として読む分にはいい加減に疲れてくるだろう。
 実際、本物のアウトローである「ドサ健」に文学は必要ない。何かを語る、語ってしまえる人間というのは、行動している自分と、それを眺めている自分、というズレがどーしてもできてしまう人間だ。本物のアウトローはその両者が一体なものだろう、そりゃ「ドサ健」だって自分を客観視することもあるだろうが、行動する人間というものは、客観視しても結局そのズレを自分で埋めてしまう人間なのではないか、と思う(「行動する人間」と「語る人間」の違いは、現役のプロスポーツ選手と、それが引退して解説者になった姿の違い、という例を考えれば分かりやすいかも知れない。現役時代には無口だった野球選手が歳を重ねて解説者になると饒舌になった、なんて話は少なくあるまい)。何かの渦中にある者にはそれを語れない、ってことだ。
 そんな「坊や哲」はなまじ自分が最終的には「ドサ健」には勝てないということを知っているがゆえに、結局のところ本物のアウトロー雀鬼にはなり切れず、結局のところカタギの人間になってしまう(そこは現実の阿佐田哲也・色川武大自身が投影されてるとも言われる)。しかしだ、「坊や哲」は自分が「ドサ健」に勝てないとは知りつつも、だからといってそこで虚無的にならないのだ、彼は自分が「ドサ健」とは違う、本物のアウトローの世界の中で生きて行くにはどこか甘さを残したパンピーに近いことを分かっていながら、しかしやはり「ドサ健」に憧れ、「ドサ健」に闘いを挑み続けるのである。それに理由があるとすれば、それは、それでも自分は麻雀が好きだから、B級の、二流のバクチ打ちであろうと、やはり自分はバクチ打ちとして生きたいから、であろう。
 先にも触れたが、やはり我々の多くは「ドサ健」であるより「坊や哲」なのではないか、と思う(「おめーだけだよ」と言ってくれても結構だが)。「ドサ健」になれないなら麻雀なんぞやるもんじゃない、そっちのほうが潔いだろう、という考え方もある。まぁそれも一理あるだろう。しかし、幸か不幸か「俺はそれでも麻雀が好きなんだよ」「俺はそれでも麻雀打ちとして生きたいんだよ」という向きは、「坊や哲」として生きて行くべきではないか、と私は考える。そして「坊や哲」なりに精一杯力の及ぶ限り「ドサ健」に近づく不屈の闘志を抱き続けたい、と、少なくとも自分はそう思っている。

 
 
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